仏教と仏法
- kisuke1965
- 2020年12月12日
- 読了時間: 7分
更新日:2021年1月17日
初代講頭座談会(2002年12月4日)
腹の決まっている人の信心は、出てくる相が善相であれ悪相であれ善悪関係がないの。自分が害せられるかもしれない利せられるかもしれない。それも関係ないの。妙法蓮華経に身を任そうとしているの。身を任すということは右往左往しないということ。
日常生活が私たちの仏道修行の場所なの。日常生活以外に仏道修行の場所を求めることはできない。それが本山へ行かないと仏道修行ができないとか、寺へ行かないと仏道修行ができないとか、言ってるのはまやかしなの。そんなこと大聖人は一言もおっしゃっていない。先師上人の御指南に、日常の生活を心がけなかったならば信心するとも無益なり、と日亨上人がおっしゃっている。日常の生活をなおざりにしておいて、信心でございます信心でございますと飛び回ったて、そこには大聖人の加護は一つも起きてこないの。それはなぜかというと、その本人は道理に反した信心をしてるしね、仏法の深義(じんぎ)、深い義というものをようつかんでないの。だからそういう信心をしたときに功徳なんてあるはずがないの。ところがそういう人に限って功徳がある功徳があると騒ぐの。それは何かと言ったならば、大聖人が星名五郎太郎殿に注意なさっている。真言念仏であっても祈祷をしたときには多少の現証は出ると。それをもって正しいというのか。そんなもんじゃないとおっしゃっているの。ちょっとやそっとの現証が出たからといって正しいというもんじゃないの。本当の正しさはどこに出てくるかというと、その御本人の眼・耳・鼻・口・命・身体、この六つにでてくる。本当の功徳は。法華経法師功徳品に。眼に八百の功徳とは、正しくものが見えるということなの。物事の裏が見通せるということ。千二百の功徳というのも地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間の法相を知ることができる。耳の功徳は、相手の言葉を聞き分けて、これは修羅なんだ、畜生なんだと判断ができる。
在家の身はただ余念なく南無妙法蓮華経と唱うべし。余経も法華経も詮無し。ただ南無妙法蓮華経なりと、堀日亨上人猊下は大聖人の御文を引かれている。他の勉強を一生懸命やっても南無妙法蓮華経を大事にすることをできなかったなら、自分の一念心の中にビシーッと収めることができなかったなら何の意味もない。法を持(たも)っておりますというところへこない。その修行というのが日常生活の中にある。それを忘れんようにしてもらいたい。そうすれば否応なしに何もかも分かってきだす。
仏法そのものが活かす法なんですよ。ゆえに活法という。だから仏法を持っているといって意気消沈しているのはおかしい。どんなことにぶつかっても意気揚々としている。どんなことでも乗り切っていきますよという姿を見せて初めて仏法を持っているという。自分は拝んどりますけど、こんな問題にぶつかりましてどうしても(うまく)いきませんといってる人は仏教を持っている人なの。仏教と仏法がこんがらがってる人なの。仏教とは仏の教えなの。これはピンからキリまである。仏法とは一つしかないの。究極の教えなの仏法は。それは私たちが生きていくために必要な法なの。すなわち南無妙法蓮華経。
南無妙法蓮華経と題目をあげるときに、我法界に遍満すという大きな気持ちになって御本尊に向かっているかね。自分自体が法界に遍満してるんだと。自分自体の命、妙法蓮華経は大宇宙法界と同じものだと。こういう思いになって御本尊に向かっているのかね。多分、向かってないと思う。それは御本尊に向かったら願いが叶うき。南無妙法蓮華経と拝んだら病気が治るき。問題が解決するき。こんな思いで御本尊に向かっていたら大聖人は泣かれるよ。大聖人は即身成仏を教えんがためだとおっしゃっている。たったこれだけなの。
南無妙法蓮華経の題目をあげるときに南無妙法蓮華経の文字を拝している。我一念法界に遍満せり。こう確認する。御本尊に向かった時。まず確認が大事なの。自分が法界に遍満してるんだと確認しなくちゃダメなの。南無妙法蓮華経なんだと確認する。そのために直拝をしている。そして法界に遍満している自分を見て、これをすなわち仏というのかと、そこに恭敬(くぎょう)の念を起こし尊敬し拝啓をしていく。これが直拝の根本なの。御本尊様を持(たも)っていくのはそういうところに根本がある。それを分かってなくて、御本尊様が(家に)あるある言っても何の意味もない。
自分は御本尊を信じているから信じてるじゃないかという人がいる。そんなもの信心のうちに入らない。本当の信心とは身口意の三業。色読、身読をやっておるのか。これを信心という。受持即持戒という。これは寛尊の御指南。修行をしなければならない。どこで修行するの?日常生活で修行するの。修行の場所は?家の中であり、外へ出たならスーパーマーケットであり列車に乗ったらそこが修行の場所なんだよ。人と接していくときも修行の場所なんだよ。不自借身命但惜無上道。法を重んじるということなの。なんぼ自分たちが不自借身命の信心をしていますといっても、外へ出るものはなんちゃないんと違う。不自借身命の信心をしていますと勇ましい姿を見せる必要もないろう。一念心があるやらないやら分らんのと違う。これが本当の姿です。
信心しよって人のことを言うもんじゃない。やっかみを言って人を貶めるようなことを言っちゃいかんと。つらい仕打ちをされても、ああだこうだと責めちゃいかんと言ってる。なぜかというと、それをやっていくと自分自体が罪障を積むんだよ。そういっている言葉に楽しみがあるわね。こういう、人のことを言って楽しむ人は修羅が強いから。畜生界が強い人がやるから。だから、そういう境涯になっていく。落ちていく。わかりきった話だ。商売している人には特に注意する。商売繁盛させたければどんな人に会ってもお世話になっているという気持ちをもって接していけば功徳が出る。あの人はこうだ、どうだと言っていたらうまくいくはずがない。当然のことじゃないか仏法の上から見て。それが修行。
直拝の時の心構え。本因妙の本尊を確認する。のちに子弟結縁の一機一縁の本尊に対し礼拝する。報恩・感謝・尊敬の意を表する。観念は我一心法界に遍満する。自分というものは法界に遍満しているものなんだ。ちっぽけなものじゃない。と確認する。
法界に遍満するとはどういうことですか?←質問者
あなたの体というものはちっぽけなものだろう。だけど、あなたの命がなくなったらどこへ行くだろうね。大宇宙法界に還元されるんじゃないかな。元に戻る。一つの因縁をもって縁に触れてあなたは○○さんという名前を使っているわけだ。しかし、その名前は生命じゃない。肉体につけられている。死んでしまったら命はどこにあるかわからない。
暗い顔をしているときは罪障消滅じゃないの。明るい顔をしていつも口を開けたら良かったねえと言える人は罪障消滅しているの。困った問題があるときは人に語るよりも、まず南無妙法蓮華経と御本尊に向かってどうでもええという腹になるの。このどうでもええとは、煩悩を滅する言葉なんですよ。どうでもええじゃ困るじゃないかとなったときは、迷いを生じる。しかし、どうでもええじゃないか、なるようにしかならないじゃないかとなったときは、そこには還滅門(げんめつもん)があるんです。還滅門とは悟りの境涯。どうでもええじゃいかんじゃないか、これ何とかせんといかんじゃないかとなったときは迷い。そこから苦しみが始まる。どうでもいい死ぬのは当たり前、病気になって当たり前、世の中うまくいかなくて当たり前じゃないか。ああそうだなとなったときは還滅門。悟りの境涯へ入った。ここに現証の出方が違う。これをつかみなさいと僕は言っている。これをつかんだら間違いない。ご自分で体験してみなさい。ここまで話したら後は皆さん方が体験する以外にない。体験を積んでちょうだい。素晴らしい信心だから。
Comments