仁義礼智信
- kisuke1965
- 2023年10月1日
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更新日:2023年10月8日
初代講頭座談会 2007年10月4日
質問者→問題が起こったりしても、自分の思いどおりいかないことが多いですよね。それを当たり前だと思って南無妙法蓮華経といけばいい?
問題が起きたときにはね、妄想するの。妄念を起こすの。良いこと考えんろう。それによって自分がバタバタバタバタしてるの。これを六道四生というてね、自分自体が流転をくりかえしてる。流転をするというのはどこがというとここがやっているの。自分の一念心が流転をくりかえすの。こうでもない、ああでもない。ここで判断しよるの。ところが本来は、いまさっき御拝読した御義口伝のごとくにね、本来は私たちの一念心というのはね、動転せんところのデンと構えこんだ静寂なものがあるの。これが私たちの一念心なの。その一念心が起きてきたときにね、いろんなものが動き始めていくの。これを智慧の慧ちうの。ところがね、それが動転せんところの一念心であるならば正確にものが見えるけれども、動転してものを見とるから正確にものが見えんの。ぜんぶ妄念で見ておるから妄想が起きてくる。ここへ。ところが妄想が起きてこようが妄念が起きてこようが、自分自体の一念心はどこのものかといえば、よくよく見たら森羅三千なの。ほかには何にもないの。私たちの所作においても、ぜんぶ森羅三千の働きをしてるの。これを戒定恵の三学というの。これが。この根本要をつかさどっとるのが、いま御拝読した「南無妙法蓮華経これなり」。したがって、この南無妙法蓮華経とはなんですかと聞かれても分かりっこはないの。だから大聖人、不可思議境とおっしゃるの。その不可思議境はどういうものかといえば、言語道断、心行所滅の法ですよと。ただそれを本当に体験しよう、知っていこうというのは難しいことはないと。唯一の方法があると。勉強とか思索では決して分からんと大聖人様おっしゃってる。言い切ってらっしゃる。それを知る方法はひとつしかない。それはなにか。自我を捨ててしもうてね、我慢偏執を捨ててね。思索、分別、計算。一切捨てよ。捨ててしもうたときに妄想、妄念がなくなっていくの。自我が働いてるから妄想、妄念が起きてるの。計算してるから。そして小賢しい分別をしてるの。こうやったらこうやったらこうやったらこうやったら。そういう計算ばっかりしよるの。そのとおりにいく世の中じゃないの。こういうふうにいけば、みんな幸せでいくの。いかんところが問題なの。それを末法と名付けてるの。私たちは末法の時代に生まれ合しているの。その末法の時代に合うて、この法華経というのは大聖人様がこの信心しかないと教えてくださっているの。およそ仏法というのはどういうものかというと。みんな、仏法と世間の法がゴッチャになってるの。だから世間の法そのものが仏法だといっても分からんわけなの。じゃあ仏様なんだ仏様なんだと、みんな思うてるの。仏が言ったことだから。じゃあ仏とは一体何なのか。大聖人、はっきり仏とは人だとおっしゃってる。人の振る舞いだとおっしゃる。これが仏なの。じゃあ人の振る舞いとは一体何なの。戒定恵の三学しかないろう。だからその戒定恵の三学。これが世間の法になって、やったときには固有の法華経の名詞(名称?)は何もかもなくなっていくよと、いっつも言ってるのはこのことだ。そして世間の法に隠れてしまうんだ。私たち自体がたもってる法は。そして世間の法によって、たもっているということが見えていく。それは何かというたら、内に秘められたところのキチっとした己心の法として、その徳として外へあらわれてくる。それが外に現れてきたときには、妄想妄念なんてもんじゃない。その人柄といおうか。温かみといおうか。幅の広いものになって、いままでキンキンキンキン言いよった人が、ジワーっと姿を変えていく。そのうちに秘められておるところの徳というものが外へ出てくる。そして人と話をしても、いやー、あの方、変わったねえ、とか。言葉が柔らかいねえ、とか。ひとっつも嫌みのない人だねえ、というふうな姿に変わり始める。これはその徳が出てきた相。外へ。ところが反対に、そんなものがなんな、言うてるときには、もうすでに自分自体が、しや?になっているから、いらんことばかりペラペラペラペラ言い出して、自分の首を絞めないかん。注意されてるのはここなんだ。本当に戒定恵の三学ということが分かってきて。これをもっと平たく言ったならばいつも言ってるところの仁義礼智信なの。だから法華経をたもっとってもお互いが真面目に信心をし始めてくると感ずいてくるのは仁義礼智信なの。これを涅槃経においては、ええですか、世間の道徳じゃないんで。世間の道徳もぜんぶこの法華経から出てるんぜ。根本は。だから我々が仁義礼智信といってるけども世間の道徳とは違う。経文の上にいってる言葉ぜ。その仁義礼智信というものは、これ涅槃経の中において根本正行(しょうぎょう)?という。すなわち根本的な戒律なの。法華経をたもっていく人の。だからこの御信心をするうえにおいて、これが欠けてしまったらいかほどに法華経をたもってるといっても通らんと大聖人はおっしゃってる。通らんのです。法華経をたもっとるというても。これが欠けとる人は。すなわち、人のうわさ話で悪口をいってる人、(人を)軽んじている人、罵っている人、家で喧嘩ばっかりしている人、計算ばっかしやってる人。こんなの全部はいってないんです。法華経をたもった時にはね、これを守っていけと仰る。大聖人様。だから根本的において、根本と名付けられてる。その根本行なの。これがさっき言った戒定恵の三学の姿なんです。だから信心していく者は、これを心得ておかんといかんの。これから見たならば自我が出てきたらおかしいんですよ。それとの戦いをせないかん。
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