人は支えあっている
- kisuke1965
- 2023年3月10日
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初代講頭座談会 2006年3月6日
質問者→・・・振り返っていくことがなかったら、前向いていくことができないなあと。信心を絶対のものにしたいなあと、みんな思っていることだけど、そのために必要なこととは何でしょうか。
大聖人様は三三蔵祈雨事の中で、お互い支えあっていけと仰っている。御信心を。そして、歴代の御法主上人は話を聞けと。特に寛尊は話を聞かなくてどうやって信心できるのかと注意されている。僕は、常に何かの疑問が起きたときは、聞く。聞くということは少しも恥ずかしくないから。聞かんかったら分からんろう。例えば行体堅固(ぎょうたいけんご)という言葉がある。どういう意味?行は行動だね。なんの行動?これは?行は即ち信心だろう。自分が信心してますという人は、法を信じて行をおこなってる。その人が信心をしてる人なの。だから寛尊が、自分は信心しておりますという限りにおいては、法を信じて大聖人仰せのごとくに寸分たがわずに行動のできている人。これが行体なの。堅固とは間違いがないことなの。そうするとこれを柔らかく言ったならば、色心不二という。色は体じゃろう。心(しん)は心(こころ)じゃろ。だから色心不二といったならば、自分の命と体とは一体になっちょらないかんわね。思うところの行動が起きてるわね。行動のあるところには、常に自分に躍動するものを持っちょるわね。有難いという思いが。これが行体堅固の信心をしている人の姿なの。だから行体堅固の信心をしている人には憂いがないわけよ。どんな問題が起きても解決する方法を知ってるから。それは何かといったら、妙法蓮華経を信じ切れてるから。そうすると今度ね、こういう信心に立ってる人を誹謗中傷したら、どんなになると思う?これ大聖人様が教えてくれてる。我々には分からんぜ。その人がどんな信心してるやら。あなた方の信心はどんな信心をもってるか分からんで。多分に行体堅固の信心だろう。遠方からこうやって訪ねて来られてるから。法を求めてるからね。法を求めてるということは、行体堅固の者(もん)でなけりゃ法は求めれんからね。なぜかというたならば日常の生活に追われていくからね。自分の気の向いたとこへ飛び出るから。
ただ信じますなら、しいよい(し易い)ろう。けども、ただ信じるだけじゃないろう。我を疑い、師を疑い法を疑ってかかれじゃろ。最初は。そのうちに。我を疑えということは不必要だということは説明したね。今。あと正法正師か、邪法邪師かを疑わないかんろう。それが分かってしまったら、もう疑う必要はないからまっすぐ信心に立てやろ。まっすぐ信心に立てというても一人信心はできないんだろう。難しくて。なぜか(と言)ったら、自分の煩悩障が働きよるからよ。我々は在家だから。出家でさえ煩悩障が働くんだから。その煩悩障に振り回されて、今日は右、今日は左、明日はどうしようと迷うろう。これはいかんけんどねと言いながら迷うろう。迷いながらいつの間にか法を忘れてしまいよるやろう。忘れてしもうて自分の煩悩障だけになってしもとるときやろう。本当に法を信じてるのは一部分と違う?こういうことを指摘してくれる人がおるかい。そばに。おらんとって、何年間も一人信心できますと力んでおるけど。まともな信心できてると思う?できっこないろう。だからさっきも言ったように、話を聞きよったら、ねじれにねじれた話が正しいような錯覚を起こしてる。だから人のことはパッパパッパしゃべるし。あれがこれがと、その人の欠点を突きよるし。そうすると大聖人様はどう注意なさってる?行体堅固の者に、軽はずみにその人を非難中傷して、いちいちいちいち人に告げ口しながら、軽口叩きながらやって。それは全部自分に返っていくことになる。空恐ろしい。慎めと大聖人仰っている。全部返るぞと。自分に。還著於本人。全部返ってくる。だから、この御文で言えることは、誹謗中傷されても構わん。こちら側がしゃんとしとったら、誹謗中傷する者が口を封ぜられますよと、何回言うたか分からんよ。座談会のときに。我々が人を罵り、恨み言を言い、今にバチが当たらあというふうなよそのどっかの宗教みたいなことは言わないよと。大聖人様は還著於本人して我に返るぞと。したがって口を慎めと。注意されてるのはここなの。迂闊なことを言うと大変なことになると仰っている。自分がかぶってしまわんといかんろう。その言うたことを。それだけ法華経は守られてる。しかしそれには行体堅固じゃなきゃいかん。きれいな気持ちでおらないかんということよ。いっつも自分がきれいな気持ちでおらんと。あの人がこの人が言うたらいかんぞね。どんな状況に置かれてもきれーな気持ちで。相手の仏性を見ながら、あの人のおかげこの人のおかげ。そういう気持ちでいっつもおれるかどうかなのよ。
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