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みんな仲良く

  • kisuke1965
  • 2024年4月6日
  • 読了時間: 6分

更新日:2024年4月14日

初代講頭座談会 2005年4月6日


質問者→この間お寺さんに行かせてもらったときにね、チラッと私が何か言ったときにね、御僧侶がね。信心とは違うよ、みんな仲良く生きることだよと、こう言われたのがポーンと頭に

入ってね。みんな仲良く生きるって、仲間とはこう仲良くできるんですけど。なんていうか、みんな仲良くというのは根本的に。。そうなんだよなと思いながらもう一つ。。


根本的にとは、仏法上じゃろう。住職が言ってるのは仏法の上から話をしておるこっちゃからね。嫌なもんじゃな。これに対する文証を出しちょったんじゃ。今。何にも聞いてないのに。これ必要なことを寛尊の御文を引いて。。。ここへ来て言わんと電話ばあ、くれたらどう。これ。ほんならもっと勉強ができるのに。あなた方が来てくれることによって勉強もできるのよ。実は。これあれと質問してくれることによって。今まで自分自体が御拝読しておった御文についても忘れてしまってるのよ。あなた方が仰ってくれることによって、フッと思い出すのよ。ここにもねえ、言われているように普段の信心、日常の生活の中の信心のありよう。これも御文証がある。くだけて教えてくれてる。根本が仏法なのよ。要するに南無妙法蓮華経が根本で話になってるから。みんな仲良くするというのもそうなのよ。私たちの御信心はそれを根本としてやってるわけなの。それを根本として始まってるの。もしその根本がなくなってしまったならば、唯我独尊的な、そこ除けそこ除けの、威張りきったところの信心に変わるわけなのよ。肩ひじ張って、世間の人は無視してしもうて。俺だけ正しいという生き方に変わるのよ。そういう信心じゃないのよ。大聖人の信心は。それが分かってないと、仲良くという話が分からんわけなのよ。それが分かってきたら当たり前のことなのよ。よっしゃよっしゃ。今日はこれを根本に話をしましょう。


注:このあと、大石寺法門から、戒定恵を引用されたり。しかし長い。ので、どういう話になるか皆さんでお考え下さい。時間があれば打ち込みます。

みんな仲良く、が、答えです。日蓮大聖人の信仰をする人にとって、この答えは異論ないと思います。この答えに至るまでをご自身で考えるのが楽しいのかなと思います。

自分の考え。日蓮正宗の信仰は、日蓮大聖人と不軽菩薩が礼拝しあう姿だと思っているので、だれかれ構わず礼拝した不軽菩薩の生き方は、みんな仲良く、だと思う。


ええですか。今からね文章を読みますけんね。正直の信心とか、仲良い信心をするとか出てきます。聞いとってよ。

日蓮には一見強く法華経を説き広宣流布を願っているように見えるし、自らも法華経の行者と名乗っている。いかにもそれは狂信的なものに受け止められやすいが、それをそのまま文上に受け止めればいかにもそのとおりになる。そこに戒定恵が登場すると法華経は即世間の中に入って法華経としての固有の姿が失われ、世間の法を主とした中に隠れてしまう。それが仏法なんだ。世間の民衆一人ひとりの中には己心の一念三千を見、本仏本尊を見出す。それが広宣流布である。すなわち法華経の信者を増やすのが広宣流布とは思えないが現在は一宗建立という条件のもとに考えられているために、そのように定義づけられてもっぱら自宗の信者を増やすことが広宣流布ということになっておるが、そんなもんじゃないわけ。そこに広宣流布という美名に隠れて行われておるのが怪しげな信心のありようなの。それが現実の姿なんだと指摘されてる。これらはすべて戒定恵不在の中に行われとる。もしこれに戒定恵が登場すれば途端に一人が単位となって、ここが思想への変わり目になるのではないだろうか。大聖人が願うところは一人ひとりに戒定恵を知らしめんがための思想運動とみるのが妥当ではなかろうか。それだけに戒定恵は宗教として不当なように見受けられるけども、特に開目抄や本尊抄などには宗教の部分は見当たらない。この面からみれば己心の上に論じられるところは実におおらかであるけれども、いったん宗教としてみるならば極端にかたくななものに解される。難しいことになっておりますけども、ここにはっきりと言われてることはどういうことか。戒定恵が登場すると法華経は即刻世間の中に入って法華経としての固有の姿が失われ世間の法を主とした中に隠れてしまう。信心というものは日常の生活に隠れてしまって、そこにあるものは戒定恵の三学が表に出てくる。これが信心なんだ。この戒定恵の三学はどういうことかと言いますとね。大聖人の仏法は、法華経とは戒定恵の三学の上にたてられているものに限っておる。いわゆる文底の法華経であり仏法の上に唱えられる法華経こそ真実と思われとる。すなわち戒定恵というものが根拠となって題目があがっていく。故に伝教大師の三学倶伝名曰妙法(さんがくぐでんみょうあつみょうほう)という言葉があります。問うて曰く、衆生の一念戒定恵の三学倶伝に。。。動転なくこれが定なり。。。この念、事にあらわす。これは知恵なり。このこと常住にして即法界なりとみるは戒なり。難しい文になってきますけども戒定恵の三学とは南無妙法蓮華経のことを戒定恵の三学という。これは寛尊の依義判文。一身とは万法の総体。。。三大秘法とは即戒定恵なり。

皆さん方が南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経と題目をあげてるちうのは戒定恵をいってる。戒とは防非止悪。恵とは知恵。戒とは全体を見たときにあるがままにものを見てる。ほかに何かがあると思ってみてるときは戒を破っていく。これが破戒。。。一に本門寿量の大戒。。二に。。三に。。こういう難しい文章ですから、ここでは話をしてますけども。住職さんが言うた意味合いが分かってきたろう。戒定恵です。仲良うするのが当たり前なんです。相手を罵るもんじゃないんです。仲良うしてんです。自分が戒をもってるんです。南無妙法蓮華経と戒律をたもってるんです。もし戒律というものがなかったならば何になるかというたら。南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経と。そこへ来たら、お前謗法だお前謗法だ。そんなことは謗法だ。目の色変えて。相手を攻めとらないかんです。信心してない。拝んでない、お前は謗法だ。そして罵っとらないかん。信心してないからいうて病気になったら。そら見たことか。信心をしてないから。こういうふうな呪う言葉を吐いとらないかん。それが皆さん方多分に残ってるわけだ。そういう思いが。ちょっとええ加減な信心しとったら、こんなんなりました。これは罰でしょうか。すぐに来る。罰だというたら顔色変えてる。罰じゃないいうたらホッとしている。罰だろうが罰じゃなかろうが全部自分の行為じゃないか。自分の行為によってなっていく。


およそ信仰ってのは呪詛的じゃない。怨念をもって南無妙法蓮華経と拝んだ時には呪詛的な信心に変わってる。その人は。本当の宗教じゃない。日本の神道というものも呪詛的でしょ。今もってやっとんじゃないの。天満宮いってみなさいや。八幡宮でも構わんで。お祓いしてね。病気が治るか治らんか。試験に通るか通らんか。神札百円で売って交通安全です。百円で命が救えりゃあ大したもんよ。全部呪詛じゃないか。罵って相手を倒さにゃいかん。位を得たいからあれを倒して自分が位を得たい。呪詛的でしょ。ところが大聖人様の仏法も頭破七分。これ法華経に出てる。陀羅尼品ですから。開目抄においてはどう仰っているかと言えば、折伏の云々に例えていらっしゃって。。。


まだ続くんですけど。このくらいで。。

 
 
 

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