ずっこけたとき
- kisuke1965
- 2023年3月11日
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更新日:2023年3月27日
初代講頭座談会 2002年3月12日
ずっこけたときは、畜生道、修羅道、餓鬼道。四悪道の命が盛んになるんだよ。ずっこけは。現時点でのありようがうまくいってなかったら、それをもって自分の先を考えるわけだ。それはなぜかといえば、自分に躍動するものがないから。四悪道の命でものを見ているから。ところが四悪道の状態でも、自分に躍動する命を持っている人は、それを打ち破っていこうとするわけだ。それは南無妙法蓮華経と題目をあげるときに出てくるわけだ。だから仏心、己心というものは、妙法蓮華経ですよ。妙法蓮華経は大聖人は御義口伝の中で歓喜の中の大歓喜なりとおっしゃっている。だから本当に御本尊が信じれている人は、まず自分の置かれている立場に口舌をいって、自分の立場によって言い訳をしながらベソかきながらやってるわけじゃないの。本当に御本尊を信じ切ってやろうとしている人は、有難いなあと。どんな状態でも乗り切っていくぞと自信満々なのよ。頭ぶつかってしまってね、道が開かんかなあという状態であってもね、別段ビクビクしないの。やらないかんという一念心をもって。だからずっこけるというのはそういうことなの。本当に御本尊様を信じれた人と信じれてない人との違いはここにあるの。だから口には信じた信じたということはいくらでもできると大聖人様仰っている。大聖人様の御文にでてくるよ。我も信じた我も信じたというと。自分も信じた信じたといってるけれど、本当に信じているか信じれてないかどこをもって見る?その本人が自分の思惑どおりものが進んでないときに、その本人の信心がわかる。我々もそうだよ。その本人が信心どこまでわかってるか知りたかったら、その本人のありようをジーっと見てたらわかるんだよ。困ったときには困ったー、ガチャガチャやってるんだ。一つも信心わかってない。本当にわかっている人はどうするか。困れば困ったほどに南無妙法蓮華経。キチーっとした信心に立ってるのよ。そしていっつもニコニコしてるのよ。そして話聞いてみたら、えー、そんな状態に置かれてるのというような状態であっても、困りましたと言っても、道は何とか開いていけますからと平気でおれるのよ。これだけの余裕を持ってるのよ。妙法蓮華経を信じている人は。また実際においても本人が言うとおりの余裕しゃくしゃくのとおりの道を開いていくの。だから、あばら家であっても。こうやって(家に)おって、お月様見えてる状態であっても、何ちゃ心配いらんの。どうするこうする関係ないの。どうするつもりですか言ったら、そのうち何とかなるでしょうと言えるんだよ。また実際その本人に果報、徳というものが備わってきたら、どうするこうするバタバタ言わんでも、なっていくものよ。徳、果報というものを失っている人はやればやるほどに大きな穴を掘っていくのよ。だから地獄の穴を掘るのよ。穴掘るのを地獄というんよ。大聖人の御書に出てくるぜ。これが。本当に御本尊様、妙法蓮華経、日蓮大聖人様が信じれたときには、余裕しゃくしゃく。ずっこけも何ちゃせん。ずっこけるのはね、自分はわかってる。わかってるつもりでベラベラ信心を知ったかぶりでやっていく。これはずっこけてしまってる。それでね、これもそうだ、あれもそうだ。自分は思うとった思うとった。これもずっこけです。なにもかもわからんのが当たり前。私はいつも言ってるよ。六十何年間この南無妙法蓮華経の題目をあげながら、何ちゃわかってないやん。今やっと臨終間際になってきて、大聖人の仏法とはこんな仏法だったのか。なんでこんなすごい仏法をね、しばらくの間やっただけで、わずかの間になにもかも急激に変わっていく。もしこれが本当に五十何年間これをやってきたならどんなになってたろう。それにつけても亡くなった方から僕は一回忠告を受けたことがある。創価学会、あるいは顕正会。そんなことやりよると、大聖人様の教えじゃないぞ。なんぼ折伏が大事であっても、そんなもんじゃないぞ。本当の大聖人の教えは〇〇さん、あんた知っとるはずじゃないか。何をボケてしまってると言われたことがある。目を覚ませいうて。たった一回だけだった。何回も言ってくれたらよかったけれど。僕が顕正会の支部長していたときだ。やめよ、言うて。名古屋の人やった。日昇上人様の系統の方だったけどね。わざわざ訪ねて来られて。言われたけど。まあまあ、当時は僕も、なんやったから、聞かじゃって(聞かなくて)。こうして(顕正会を)やめて、あの人、本当のこと僕に教えてくれよったんだなあと思うて。ともかくね、自信を持って言える。五十年間題目をあげてきた。何にも考えずに信心信心いうてやってきたもん(者)と。五十年間題目をあげながら自分というものを見ながら、家庭というものを考えながら、自分のありようを反省しながらやってきたもんとの差というものは。たった十年そこそこのありようによってがっくり変わっている。それがわかってきたときに、遅かった、しもたーと思うた。五十年損をした。けど今、僕の体験を、恥をあなたがたに話している。真面目に信心しなさいよと言ってる。そうでなかったら損をするよと言ってる。自分自体がつらい時には南無妙法蓮華経と首(こうべ)を垂れて大聖人に他力本願じゃないけども、すがればいい。長ったらしいこと言ったけど、ずっこけたときにはろくなことはないよ。当たり前の話よ。自分の四悪道が出てるから。ものを四悪道で見てるから。ろくなことないよ。ずっこけてないときは、正式な法門でいえば還滅門(げんめつもん)におるから。ずっこけたときには流転門(るてんもん)におるから。ずっこけてるときは流転をしてるから。次から次に次から次につまらんことばっかし考えてるから。これは流転してる人。大聖人様の仏法は還滅門即ち悟りの境地ですから。本覚の境智ですから。だからそこには止めるものがあります。食い止めてしまいます。歯止めをするんです。流転をしていることに。これから先どうしよう。困ったことになったなあ。これから流転が始まる。これをこうしてこうやったらどうなるか。これはこうしたらどうなるか。流転をしているこの人。だから頭の中はそんなことばっかりだから幸せになっていく道は見つからない。ところが、じゃあもう仕方がないじゃないか。なるようにしかならんのだ。出てくるものを受けて立とう。たったこれだけだがとどまった。その人は。これが大聖人様の教えやないかえ。だからいつも生き生きとした動作でおれらあねえ。御本尊様が素晴らしいということが命に染んでる人と染んでない人はマスク(顔)の上にちゃんと出とるわけ。生き生きしてる姿が出とるのか、何かしらショボショボしたものが出とるのか。まあま、そういうことよ。
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