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すごい信心

  • kisuke1965
  • 2020年12月5日
  • 読了時間: 6分

更新日:2021年1月11日

2007年7月9日 初代講頭座談会より

質問者→生活していく上でいろいろなことが起きてくる。起きてくるのは当たり前。これを善知識として取りなさいと講頭さんから言われるが。。そうですね。

そうですよ。

みんな(笑)

私達自体は因果の法則に基づいている。私達の生活は因果律なんだよ。常日頃から原因と結果を心得て行動している人を賢い人という。知恵ある人という。そんなことを全然考えず、目先のことばっかしで行動している人を愚かな人という。 災いと幸せというも人さんから与えられるものではない。実は全部自分の行動にあるわけなんだよ。このことを大聖人様が己心の他に法を求めてはならないとおっしゃられている。あの人がこう言ったからとか、あの人と接近したことによってこうなったとか。そういうことは全部その本人の命の働きが災いしているんだ。~中略~ さっきも言ったように法はひとつなんだ。南無妙法蓮華経という、誰がたもっても成道を遂げる。ところが、たもっている人によっては不信がある。沈不沈がある。差別が出きてくる。それは仏の智慧をもって動いているのか、それとも自分の煩悩障をもって動き回っているか。ここが違う。 南無妙法蓮華経と題目を上げて御本尊様を信じておるということは、実は仏、如来の智慧を自分のものにしとるわけなんだ。故に題目は智慧だ智慧だとぎっちり言っているのはそういうわけなんだ。如来の智慧を自分のものとしたのは、御本尊を信じ妙法蓮華経を信じた行動をしている人なの。それは分かっておりますけれども、自分の常識もなければと小理屈を言っている人には、仏の智慧は出てこない。仏の智慧をもって物事を見たときには悪いものであっても善く見えるのが本当なの。それをもって自分が、自分のものとしてどう行動をしていくかということになっていくが。 ところが一番いかんのが凡夫の知恵。罪障の中でいかんことを3つあげとるが。身・口・意の三業で説明されている。体でいうと煩悩障。根本要が意業。これが罪障の大元なの。口に出さんかったらええわい。そうじゃないの。因果律から見たら全部影響してるの。そして、口によって相手を誹謗していく。自分を善いものとして相手を誹謗する。相手の欠点をあながちに取り上げながら自分を高くあげる。こういうことをやりながら業報を積んでいく。そうするとその業報が積み重なってきたときには、自分がもろにかぶらなければならん。なんでこんなことになるかこんなことになるかと言っている人は業報というものが分かっていない人が言うことであって、本当に業報というものが分かってきたときには人を恨むものはなんちゃない。全部自分が元だ。ね。こういうのを宿縁という。そういうひとつの宿縁をもっている。しかし、宿縁というなら我々は久遠元初に妙法蓮華経という真に不思議な法に接しとったという宿縁深厚なものをもっておる。僕たちが宿縁宿縁というのであれば、これを考えなくてはならない。ものすごい善根を積んでいる。南無妙法蓮華経の話を聞いて、分からないなりにも何となくジワーッと出てきて知っていくことができる。それは、過去の善根が芽生えてきた証拠。 そういうことが分かってくると自分を取り巻いているものに幸せ不幸せがあるわけではない。幸せ不幸せを感じているのは自分だけなんだ。その本人がどう捉えて生きているかということが問題になってくる。 如来の智慧とは禍福をちゃんと心得ている。私達の日常の生活にはそれが備わっている。煩悩障からくる知恵は行き詰まりが来る。仏の智慧は末広がりなんだよ。僕たち自体は毎日、南無妙法蓮華経とあげて仏の智慧をいただいている。だからバタバタしない。分かっていない人はバタつく。青うなったり赤うなったり。 すごい信心をしてるんで。

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職場で嫌だなあと思う人と一緒になる。こちらが辞めたいと思うほどに。でも、その人がいるお陰で、あなたのことを光らかしてくれてるんじゃないが。

農協の臨時さんからも話があった。相手がどんな境涯の人であっても、お客さんであったなら頭を下げなさいよ。それがあんたの立場ぞね。仮に生活保護を受けているような人でも歳が上ならあんたの先輩じゃから。そういうことを頭において行動しなさいよ。そうじゃないと見捨てられるよ。と注意した。そしたらお客さんから投書があった。なんであんな立派な人が臨時で本雇いにしないのかと。本雇いのほうは口はうるさいし、話はケンカ腰だし。それなのに臨時さんのほうが腰は低いし、農協として素晴らしい人をおいているじゃないかと。そして理事に呼ばれた。本雇いにするから、どうぞ農協におってくれと言われたと。

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自分がどういうふうな信心に立って、どういうことを心得ながら信心をしておるかということが問題なの。そこへこなきゃ。信心というものはこういうものだったなと気がついたときには、オカルトを飛び抜けてしまって、大宇宙法界の素晴らしさに気がつくわけなんだ。そして自分自体が大宇宙法界の生命だったじゃないかと気がついたとき。それが成仏得道の姿である。成仏というのはこういうことなんだ。みなさんは利益観から功徳を得て幸せになったら成仏よね、と簡単に言っているが本来の成仏とはそんなものじゃない。自分自体がどういうものなのかを知ることが大事なんだ。自分の本当の古巣を知らな。そして自分の体と自分の生命。自分の己心の一念心が五体の中に張り切っている。そして妙法蓮華経と題目をあげるたびに一念心が爆発するが如き活動をする。しかし、自分たちが生きている生命。それは誰も見たものはおらんの。ただ言えるのはそれによって行動する仮の姿。これを見て、ああ、あの人はああいう一念心なのかねと言うしかないの。大宇宙法界の生命を小さなものに圧縮したことに気がつかなければ。大聖人様はこういうことを教えてくださっている。 僕たちはこうして言葉を使っているけれども、それが徳の備わったことを言っているのか、それともマイナスになることを言っているのか。考えること自体も徳を積んでいけれるものか。考えんといて自分の足を引っ張りながら、自分で自分を奈落の底へ突き落としていくようなことを平気で考えているのか。煩悩障の怖さは片一方にある。仏を信じて行動するというのはこちら側にある。

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文字で伝わるかどうか。圧倒されました。 考えてみるに、仏道修行というものは死後をテーマにしているのではなかったか。釈尊は死後のことは語ってないぞと言うなかれ。生老病死は四大テーマのはず。毎日の生活の果に死が待っている。死んだらどうなるかというのは誰もが気にすることでしょう。死後のことは分からないにしても。。 大宇宙法界に帰って行くんですよね。

 
 
 

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