ご信心とは
- kisuke1965
- 2022年3月5日
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初代講頭座談会 2002年3月12日
今までのような欲ボケの信心をやめてしまって。本来の大聖人様が言われるように己心を観じるところの有り様の信心。すなわち己心を観ずるということは、妙法ですからね己心は。その自分自体の命そのものを観じて。要するに天真爛漫な命。難しい言葉で言うたならば意識しているところの世界におるか無意識の世界におるかということになりますけども。ともかくも己心の法門として論ずるんであるならば、物質によって振り回されていくような信心じゃないの。この信心は。そこに本当の幸せを見つめることができる。ところが物を追っかけている人にはそれがない。いっつもセカセカセカセカしている。いっつも不平がある。いっつも愚痴がある。これが物を追っかけている人なの。そこに本当の幸せというものを大聖人が教えてくださっている。これをいま私達がやろうとしている。また宇宙の有り様を見たときに。難しい話になりますけどね。物質世界というものを見たときに、必ずそれに対しては生命というものがある。科学者に言わせたら生命というのは、やれタンパク質だとか、やれアミノ酸だとか、やれなんだかんだとか成分を引っ張ってきて、生命とはこうなっているんだということを言っていますけども。しかし、それだけで解決する問題じゃないということも科学者もはっきりと言ってる。その生命そのものの云々を論じて、そして実際の有り様を見ていく。これが大聖人様の仏法なの。大聖人様の本当の教えが分かってきたならば、現在の科学の先をどんどん走っている。振り返ってみたときにはこちらが考えていることを科学が証明している。これが大聖人様の仏法なの。言葉を変えていうなれば法華経の智慧だとか言ってますけども、それが分かってくる。だから私達自体の何が大事なのかといったならば自分の生命が大事なの。事(こと)っちうのは全部生命から始まっている。だから自分自体本当に幸せになっていこうと思うたならば、自分が何を考えているんだ。自分がいま何をしようとしている。何をしようとしているということは考えていることから始まるのよ。家でもよく話をするけれども、60何年間、南無妙法蓮華経と題目をあげてきた。67年間。題目をあげてきて、正直いって本当の信心の有り様はたった10年。あるかないかだ。たった10年と言ってますけども、たった10年の間に何もかも変わってしまっている。もちろん50何年の間にも命というものが守られて、自分でも不思議な不思議な言いながら、なんでこんな事が分かってくるんだろう。自分に超能力でもついたんだろうかとか、神通力ができたんだろうかと考えたこともある。実際が。そんなことが何回もあってますから。なんでこんな事が分かるんだろう。自分で不思議に思ったことが何回でもある。目の前いろんな姿が出てきて、ありゃ、こんなことがあるんだろうかということが実際に目の前に出てくる。こういう書物(オカルト)を読んでみると超常現象として起きてくる。なんちゃ不思議じゃないと出ている。こんなこと僕は2、3回体験している。
それよりも生命というものがいかに大事かということを押さえてきてる。大聖人様の仏法というものを、いま僕の過去を話しましたけれども、そういうふうにね。自分なりに不思議なことがあるんだなあと思うて。
顕正会の問題でもそうなの。浅井昭衛氏は、「あれは神通力か念力を持っちうが。ちゃんとこっちの動きを知ってしもとった」と言ってますが、半分以上は知っとった。こういうふうに動いてくるなということを。だからその裏をかいた。はっきり言いますけども。知らんじゃない。分かっとった。動きが。これもご信心のおかげなんだ。どうして分かったんだろう。別に考えてるんじゃない。ぱっと出てくる。頭に。浅井氏はこういうふうに動いてくるな。だからこれはこういうふうにせないかん。こういうふうにしようかなと。さっささっさと手を打ってしもうた。そしたらそのとおりやった。だから舌打ちしよったそうな。裏かかれた言うて。そんなもん。
しかし、それが幸せに通じるか通じないかいうたら、幸せでもなんでもない。そんなもん。本当の幸せというのは、自分自体の命にゆとりがあってモノが豊かに見える人なの。こういうふうな有り様がいちばん大事なんよ。そのことを大聖人様は教えてくださる。だからそれができてきたならば、どんな険しいとこにいても、どんな状態になっとってもね、自分自体が険しさを感じさせない自分になるよ。これ今日の話ですよ。◯◯さんが言うのよ。買い物に行ってね。スーパーでね。あんた(座談会参加者)みたいにそんなに金持ってるわけじゃない。世間的な知恵があるわけでもない。身分も普通の庶民的なもんなのに。なんで皆んなに大事にされるんやろうねと。そして、ふと(初代講頭を)見たならば、いっつも懐に何万か持っちょるように見えるね。なんにも持っちょらせんのにね。得な人よね。と、こう言う。これが要するにご信心の徳なの。ご信心というのがきちっと命に染んできたならば、さもしい根性なくなってくるもんね。いっつも困った困った。いっつも何か何か。探し回っているような餓鬼の根性で信心をしてくれなと、うちの住職は言っておるわけだ。まだ足らん、まだ足らん、まだ足らん。南無妙法蓮華経と拝みよったら金儲けはできるか。こうやったらうまい具合行くか。そういうんじゃない。うまい具合行くためには自分がどう考えているか。何を考えているか。いうことにならいね。その根本要のことを論じあっていくのがこのご信心ですから。己心を観じざれば云々というのはそういうことだから。そのこと、よう考えられてご信心していただきたい。
~中略~
50何年間、何を教えられてなかったかといったならば、日常の生活の修行です。これが全く教えられてなかった。そして戎定慧の三学。これを教えられてなかった。ただ言うことは、拝んだら幸せになる。拝んだら幸せになる。この一点張りだ。これはオカルトなの。今の日蓮正宗というのはオカルトなの。オカルトですから、何もかも家庭を放って、信心だ信心だと飛び回っとったらそれが修行だと錯覚を起こしている。そうじゃない。大聖人のいろんな御文を拝したならば、ご信心の有り様は全部自分の日常の生活と考えとらないかん。自分の日常生活が頭になかって、拝むことだけを頭におくんだったら、そんな人、◯◯講の人じゃない。◯◯講で信心をするんであるならば、自分が日常の生活をどう考えておるか。そして、日常の生活の中に含まれるところが、物に対する喜び。人さんに対するところの有難み。そして自分の立場立場を振り返ったときに、どのような立場であったとしても、よくぞここまでこれたもんだという思いがあるかないか。当たり前に思うとっちゃいかん。こんな世の中で。よくぞここまでこれたものだ。また、病気を持っていらっしゃる方は、病気でありながらもここまでこれた。不思議だというものを感じていくはずなんだ。自分が感ずるか感ぜんかの問題なんだ。これがご信心をしている人の有り様なんだ。ほいたらば、いつのまにか、そのご本人自体は、角(かど)。刺々(とげとげ)しさも何ちゃなくなってくると思うよ。いつの間にかその方は円満な、福徳果報といいますか、そういうものを備えた円満な方になっていくと思うよ。
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