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お経をあげる意味合い

  • kisuke1965
  • 2023年2月11日
  • 読了時間: 5分

初代講頭座談会 2003年2月13日


私たちが御本尊に向かってお経をあげるということはね、仏様に対しての説法。説法をしてる。こうひとつ思う。思うじゃない、正式にきちっとひとつ理解しておってちょうだい。仏に説法を申し上げている。大聖人様が海中から取り出されてきたところの釈尊の像に向かって拝んでおったという。要するに仏に向かっての説法。我々はやはり同じく仏に向かって説法する。これがお経をあげる意味合いなの。これは当宗の深秘(じんぴ)の法門なんでね。それからもうひとつ。いまこうやって勤行した。ところが皆さん観念文をあげていく。この観念文とは大変大事なの。この観念のときに他のことを考えたときはもうダメになっちゃう。お経をあげていく、題目をあげていく、そのあとの観念文の観念。なんでその、大事か。というならば、一念法界に遍満す。大聖人仰っていらっしゃる。私たちの一念とは必ず法界に遍満してる。だから余分なこと、つまらんことを考えたら、そのつまらんこと考えて、ゴタゴタゴタゴタいってる間に、そのとおりの口にだしたとおりの結果がでてくる。なぜかというと法界に遍満してる。一念というものは。大聖人様御自身もはっきり仰っておる。大聖人が。ですから私たち自体も一念心というもの、法界に遍満してる、その一念。すなわち御本尊に対するその一念。そして、お経をあげた後で自分たち自体がなにを考えてるか。観念。その観念は余分なことをゴタゴタゴタゴタ考えているのか。それとも御本尊様に対しての感謝の思いでやってるのか。自分の一身上のことを願ってるのか。それはそれでよろしいけども。いずれにしたところで観念というものは大変大事だ。観念をあげるがゆえに題目をあげてる。観念をするがためにお経をあげてる。と、こういうふうに思ったらいい。片一方においては仏に向かっての説法を私たちはしておる。だから勤行のときの姿勢というものが問われてくる。だから心ここにあらずの勤行をしてる人は、そういう気持ちもさらさらないから、ええ加減なもんですから、きょろきょろきょきょろしながら。あっち見、こっち見しながらやっておる。そうでなしに、私たち自体が南無妙法蓮華経の題目で成道を遂げれるということが真実わかっとったならば、南無妙法蓮華経とあげる題目を大変大事な、こういう価値というかね、意味があるということがおわかりになってきたならば勤行の姿勢だって当然違ってくる。そのことを31世の日因上人が注意をなさっていらっしゃる。勤行のときの私たちの姿勢のありよう、これを注意なさっていらっしゃる。ですから心ここにあらずというふうな信心をしておる場合においては、なんぼ南無妙法蓮華経と題目をあげても、それは所詮は蛙(かわず)が鳴いとる。ヒキガエルが鳴いとるとおんな(同)しこと。心にいっつもゴタゴタゴタゴタするもの持っとりながら、御本尊様のことをペラペラペラペラいってる。口では御本尊のことをいっとるに変わらんけども、それはいいかえれば木偶(でく)人形が踊ってるとおんな(同)しこと。だからそのことを、木偶人形が踊るに似たり、カエルが鳴くに似たり、とこういうふうに例えられています。大聖人がね。自分自体にそういう性根がない。だから南無妙法蓮華経といってみたり仏法らしきことをしゃあしゃあといっておりますけども、それは木偶人形が踊ってるとおんな(同)しことで、なんのそこにも利益もなにもない。かえって仇(あだ)になってる。ということを注意なさっていらっしゃる。こういうことをよく心得ながら信心というものはしとらないかん。

それから今日ね、こうやって来てくださって、誠にありがたい。僕は普段から大言壮語しながら、皆さん方、講頭、大きなことばっかしいうと思うと捉えとるかもしれんけども、今までいうてきたことは皆さん方には真実を語ってきて嘘はひとっつもいってない。そしてまた仏法というのは必ず証明をしていかないかん。その証明をしていくためにはいいたくないことでもいっとらないかん。大言壮語に似たりといえどもその話もせないかん。そして事実、そういう結果が出たときに初めて確かにそうだなとうなづいてくれればいい。だからまたひとつには、この御信心の話をしていくには一期一会の思いというものを持っとらないかん。いつかまた来てな、いつかまた来てなというふうな甘い考えで信心の話を聞いていたら失敗する。そうじゃなくて一期一会。もう二度と会うことはない。二度と話を聞くことができない。こう思うたときの話の聞き方というのは真剣そのものになってる。寛尊はそのことを注意なさっていらっしゃる。一期一会の気持ち。すなわち、もう二度と会うことはない、会うとしてもそれはこれから先、何劫たってか会えるかわからん。そういうふうなことを思ったときには、今ここでこの話を聞いとかなかったらどうする。今ここで自分の疑問を晴らさなかったらどうする。こういう思いがあってこそ真実の仏法というものをつかむことができる。また自分自体の生活のありようを向上さし、自分自体の成仏ということを考えるんじゃったならば、この大事な法門というものを一問でも聞かなかってどうやって自分自体が生活を向上さし、自分を変えていくことができるかと、いうことをお述べになっていらっしゃる。こういうふうな大事なことをお述べになっていらっしゃる文字(もんじ)を見るにつけても、こうやってお互いが法門の話ができるということが誠に僕は有難いと思ってる。最近、本門講はこういう会合をしておりませんから。私自体がへたり込んでしもうて、ようやっておりませんから。勤行もようやっておりませんのでね。こういうふうな機会をとらえて勤行させていただいた、ということなんで。今日はひとつ、皆さん方普段から疑問に思うていらっしゃることをパッパパッパ口にだしてもらえれば、たいていは納得できるような説明ができると思います。できなければ住職にまた聞きますから。遠慮なしに。どんどん話をして頂戴。信心は別のことじゃないからね。自分たちの生活のことになってきますから。

 
 
 

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