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自力本願

  • kisuke1965
  • 2023年11月4日
  • 読了時間: 7分

初代講頭座談会 2004年11月16日


最近のミタイを読まれたら分かりますけども、御信心のありようがハッキリしてるじゃありませんか。このミタイを読みながら創価学会、顕正会の人達の姿をじーっと観察してごらんなさい。本当に信心じゃないっていうことが、しみじみ、こちらの味わいが出てきますから。昨日も黒装束でそこの辻に二十人ばかり、どこの暴力団と思う。そんな状態でね、しまいにはパトカー呼ばれるよ。

実はね、これは七五三でお参りがあった時に教育委員会関係の方がお参りに来られてましてね、その人が問題になってる、顕正会の何はね、もう問題になってますって。教育の方でも問題になってるから警察の方でも問題として取り上げてるって。

参加者→松山の方でも高校生がすごくて。大変な問題になってるらしいですよ。

横浜の方では警察が動きよるちうこともありますからね。いずれにしたとこで、およそ宗教でないということがこれで分かる。と同時に一つ胸をなでおろすことは、よくぞ辞めれたということ。大変なことになっとった。おったら。自分の家が壊れるとこだった。人さんには迷惑かけるしね。成仏どころの話じゃない。功徳功徳というわけにいかなくなる。

夕べ、ある方から電話がありましてね。遅うにでしたけども。こんなこと聞いて構(かま)んろかちうことで。この信心は他力本願ですか、自力本願でしょうか。どちらが本当なんでしょう。という問い合わせがありましてね。エッと思うて僕も。今頃そんなことと思うたけども。御本人は、真剣な思いで題目を一生懸命にあげてやっていくということは他力的なありようであって、題目をあげるから守られるんだから、という話になってきましたけんねえ。ああ、そうかねえと。私もあえてそこで何も言わなかった。当宗は自力ですからね。自力のあるところに果を預けていくというふうなこと。これはあなた方がミタイを読んでいけば分かることだからと、話をしたんだけどもね。ちょっと、納得できなかったようだな。ということは会へ出てきてないんだな。皆さんと会ってるちうことがない人なんだな。そういうふうな話があってね。だから大聖人様の御信心は今度の10月の「私生活主義」という中にも出てくる。観心本尊抄の一節を取り出して仰ってるように。仏というものに対して、他にはおらんぞと。これは前から、もう、よく高知では日有上人の化儀抄の中にこのことが出てきましてね。仏って全部自分の一念心の中にあるんでね。他にはないんでね。それが他に向かって、してくれ。手を合わせて拝んでる。これはまあ他力本願もええとこで。自分自体が目を覚まさんことにはなんともならん問題でね。仏なんていうのは自分の一念心なんだから。そういうことも分かってないからねえ。結局いつの間にか他力本願的であって、他に何かがあってとこういうふうな錯覚を起こすんだろうかね。それまでに、こういうふうな教えをしとっただけに、罪な話もあるけどもね、こっちにも。まあそういうふうなことで、電話のあった方の言葉を借っていうなれば、お互いに目を覚ましてね。パッと目を覚まして。信心というものはそんなものでないということをよくつかむということ。

そしてもう一つ大事なことは、南無妙法蓮華はいったい何を教えておるのかということなんですよね。妙法蓮華経、妙法蓮華経と題目さえあげとったら救われるという錯覚を皆、起こしてる。そうでなしに題目をあげるからどうなるんだという、そこに来ないかん。題目をあげることによってどうするんだ。そしてそれから先は自分がどうするんだ。たとえば草木成仏という大聖人様の御文の中に大事なことがあるんですね。それは何を教えているのかといえば、非情の生命、有情の生命ともに成仏するという話をちょいちょいしますよね。草木成仏の中に大事な御言葉がある。それは私たち自体が生きていくということなんですよね。道。道念。あるいは道理、あるいは道義、あるいは条件。たとえば森羅三千、森羅万象とかいう話をしますけども。森羅万象の状態ちうのはいったいどうかと見たときに。森羅万象そのものを見たときに。それぞれの形をもって生息しとるちうことが分かるでしょ。それぞれの形をもってんですよ。成長。成る。生まれる。それぞれの形をもってそこに生存している。これが森羅万象といってるんですよ。だから草木は草木なりに、あるいは畜生は畜生なりに。それぞれの生命を宿ってるもの、あるいは非情の生命のもの。それなりに条件をもってそこに生存をしてるんですよ。生存をするという条件があるんですよ。だから条件がなくなってしまったら生存できなくなるんですよ。分かるろう。私はよくカビの話をしたこと覚えとってくださると思うけども。一番分かるから。これ、話をするの。なぜかというとカビは現実にあるわけでしょ。あるんだけども、じゃあここにカビを出しなさいといって出てくるわけないでしょ。なぜかといったらカビを支えていく条件がないからなんだよ。ここには。カビという一つの物体を支える条件がここに出来たときには、カビは生えてくるんだよ。どうのこうの言わいでも。条件さえあれば。ところが条件というものがなかったら、なんぼカビがあるんですよあるんですよと説明をしても事実ここには出てこないんですよ。青カビは。あるいは白いカビであっても。我々の身体にもカビは出来るんじゃないの。そんなものありませんいうことないで。あるんでカビは。皮膚病よ。これだって条件ができてしもうたら身体につくぜ。カビは。今はないけども昔シラミがよう御婦人方の髪に卵が・・・。どこでどうなるか分からないけども、条件というものが出来たんだよ。その条件は支えてるんだよ。それが生きていけれるように。これが森羅万象のありようなんですよ。これを道理、あるいは条件というか。そうすると、じゃあ人間さんはどうですかになった時に、人間も同(おんな)しことなんだよ。人間も。だから幸せにいく人は幸せにいくなりのそこに条件を持っとるわけなんだ。不幸せになる人は不幸せになるような条件をそこに持っとるわけなんだ。支えていくものによって潰れていくんだよ。ええですか。ほんだから自分だけじゃいけないんだよ。必ず支えられてんだよ。何かによって。支えていく。だから不幸せになる者は不幸せになるような動きを必然的にやってる。自分じゃ気が付かないかも分からん。あるいは幸せになる者は幸せになるような動きそのものをしていく。実は生命の働き。物質の働きそのものは条件として生存し生きていけれるような動きをし始めていくんだ。それを教えられとるのが妙法蓮華経なんだ。御本尊様なんだ。日蓮大聖人様はこれを教えてくださっとる。だから功徳が出るの。お互いがこれやった時に。こういうふうな難しいことを言ったら、とてもじゃない。お互いが馬鹿だからね。お互いが忘れっぽいんだよ。そのうちうんと忘れるけども。大聖人ははっきりと仰る。その智慧は何かというたら妙法蓮華経なんだよ。こういう南無妙法蓮華経と僕たちは口にあげているわけなんだ。大慈大悲ともいってる。いろんな言葉で説かれてるけども。だから南無妙法蓮華経と題目をあげていくその智慧というのは、あらゆる条件を満たしていくものがあるんだよ。だから南無妙法蓮華経を真剣にあげる人と、遊び半分にやってる人と疑いを持ちながらこうでもないああでもないと題目をあげてる人とでは全く違(ちご)うてくるんだよ。状況が。


ミタイ2004年10月「私生活主義」(抜粋・要約)

「聞くと成仏できるのですか?」

「聞く」とは、「生き方が変わる」ということ。

「説法を聞き、そうだと感激」し、生き方を変えるから「仏の跡を受け継ぐ」ことができる。

宗教といえば天国や浄土という理想世界を思い描き、今はどんなに苦しくとも神や仏を信じたら、死後に理想とする世界に行けると思っています。

でも宗祖の信仰は、自身の現実を正面から直視していかに自身の生き方を変えていくかというところにあります。

お経さえ唱えていれば、手を合わせていれば、誰かがきっと救ってくれる、そのような信仰はまやかしです。

宗祖には「不軽の跡を紹継する」という御文もあります。「仏が救ってくれる、不軽菩薩が守護してくれる」そのような御文ではありません。自分自身が諸仏の世界を歩み、自分自身が不軽菩薩の生き方を生きるというのです。それが宗祖の信仰です。

宗祖はこの不軽菩薩の一切衆生礼拝の仏道修行を唱題行に置き換えられました。

宗祖はご自身を「法華経の行者」と仰せです。これは一個の人格が人の振る舞いとして、人間の生きる力として働いてくるところに最も重要な意味があるということです。

他人を敵視し、自分たちだけの幸せを願い、人の不幸をあざ笑うような信仰はけして宗祖の信仰とはいえません。

宗祖の信仰は色読にあり、その人の何気ない日常の振る舞いに現れたところが肝心なのです。

 
 
 

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