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己心の法

  • kisuke1965
  • 2023年9月17日
  • 読了時間: 6分

初代講頭座談会 2002年9月12日


質問者→己心の法則って。自分の心が。。


己心の法とは、すなわち南無妙法蓮華経そのものをいってるの。大聖人の法は己心の法といって「己心は仏心と異ならない」と仏は説きたまえり。己心とは仏心と異ならない。成道をとげた命の働き。すなわち南無妙法蓮華経。それがどういうことかといったならば、ここに数珠があります。あんな大きな数珠持つよりか小さな数珠でもええやないかと思う人もおれば、あんな数珠持ってたら坊さんみたいやないかと思う人もおる。木は何じゃろうなと思う人もおる。大きな数珠持って拝むのはええろかな(いいかな)と思う人もおる。いろいろ覚えるということは己心がそれを。己心の法とは自分自体がどうとらえているかという問題。だからとらえるのは南無妙法蓮華経じゃなけりゃいかん。そのとらえ方は清らかな一念心でなかったならとらえれない。大空のような青々としたもんでなければいかんといわれる。これは大変難しい問題なの。僕たちはなかなか濁りのない命になりなさいといわれてもできないの。自分の生活がそれぞれありますから難しい。それを南無妙法蓮華経。御本尊様を拝し奉ったときに。大聖人様の御命は十界互具の命なんですよ。南無妙法蓮華経という法に照らされて本有の尊形になるんだと。地獄は地獄界なりにおいて成道をとげるんですよ。餓鬼界は餓鬼界なりにおいて成道をとげていくんですよ。修羅は修羅なりに成道をとげるんですというのが十界互具の南無妙法蓮華経。それを自分たち自体が南無妙法蓮華経と題目をあげる中において悟っていかないかん。ほんなら餓鬼道が出てきたからどう、修羅界が出てきたからどう、畜生界が出てきてどう。そんなことは関係ない。それは持ってるものだから。修羅界がでてこようが餓鬼道が出てこようが畜生道が出てこようが。十界互具であるならば当然出るものは出ますから。出たきどうこうじゃない。出てきたものをどうするかということが問題なの。みんなは出てきたきどうこういってますけど、大聖人様はそんなことおっしゃっていない。出てきたものをどうするかが問題なの。そこは成道をとげていかすような振る舞いをしていかないかん。それはその本人のありようしかない。その本人がものをどうとらえているかということ。一つのことに対して喜びをもって臨めるのか。ひとさんのお陰様だという気持ちが絶えず働いて臨める人と、常に自分というものをクローズアップさせて自分というものが光ってなかったならば不足を思う、という畜生根性が前に出てくるか。それによって成道をとげる、とげんが決まるでしょう。己心の法とは、その本人自体がそれをどうとらえるかという問題なの。だから南無妙法蓮華経と題目をあげる中で常に私たち自体は生かされておるという思いというかね、妙法蓮華経の加護をいただいておるというかね。そういうふうな思いをもって物事を見ていったときにね。肩ひじ張ってね、ケンケンガクガクやるという気持ちは湧いてこない。何を見とってもね、有難いなあと。あの人どうしよるかなあと心配になって。顔を見たらああ良かったなあと。いつのまにか大慈大悲というものが命に染んできて形を変えて出てきだす。だから南無妙法蓮華経と題目をあげるのは呪文じゃないんです。みんな呪文のように錯覚を起こしてる。あげとったらええと思ってる。そうじゃない。あげたならあげたなりに自分がどう努力しとるかということが問題なの。だから大聖人様が題目をあげる、勤行。振り返って己というものを反省する。考える。これがなかったら意味がないと仰る御文があるんですよ。自分が絶えず反省するという気持ちがないと。俺は正しい、俺は正しい。いまの日蓮正宗じゃないけども。そんなこといってたらケンカばっかしですよ。そうじゃない。反省する。己心の法とは別にないでしょう。所詮はその法はどこにある。ここしかない。己心です。己心は仏心と異ならず。これを覚えといてちょうだい。末法は無仏無経の時代でしょ。だから久遠元初なんです。みんな久遠元初というと大昔のように思っている。いまは久遠元初です。無仏無経の時代です。仏はどこにもおらんです。仏は自分の一念しかない。だから大聖人様が仏というのは一切衆生とおっしゃる。われわれ自体が南無妙法蓮華経と題目をあげて、自分自体が己心を見つめて、自分なりに目の前に起きてくるいろんなことに紛動されない自分に変わっていく。どんな中でも平気でおれれる自分になった時に成道をとげた姿が出てくる。そういう時に一念を定めてやっていく。思い切る。なんでも。いかんものはいかん。良いものであったならどんな反対があってもやり抜こう。思い切ってみる。自分たち自体が御本尊を信じて南無妙法蓮華経と行動を起こしていくときに、思い切ったことがあろうか。いーっつも中途半端で悩みながらどうしようこうしようというものじゃなかろうか。

思い切った体験をひとつ話してみましょう。まだ高知でも3、4人の人しか知らんけども。ひとさんの体験だけども。子供さんの話だけどもね。16歳の女の子で。何か嫌なことがあったんでしょうね。アルバイトが終わって午前11時に帰って来んといかんかったけど帰って来んかった。

で、あっちこっち相談して回った。一週間かかった。相談してる間に。ところが相談に行くと先細り。不安がいっぱい生まれてくる。安心できる話はひとつもなかった。女の子でしょ。どんなになっちょるかわからん。下手したら売り飛ばされてるぞと、いろんなこといわれた。それから電話してきたわけでしょう。(まず世話役さんに電話した。その世話役さんも以前、講頭に相談したところ散々叱られた話をしてくれた。そのうえで講頭に電話してみろと。怒られるからと)

たしかに怒った。でも世話役さんじゃないき。無理もないからね。さぞかしご心配なことでと。しかし同情はするけども、ものすごい信心しよって安っぽい同情はせんよと。一念心を定めなさいと。それで電話を切った。それからです。岡山におるということが大体わかった。で、岡山に行くと腹が決まった。僕が腹決めいうたから。腹を決めた。ところが行ってどこ探す?あてもないがぜ。どこ探すやら。ともかく行くには行ったらしい。お母さん、学校の先生。岡山の警察へ行って、子供を探しに来たいうたら警察にいわれた。お母さん甘いないうて。16歳の子供が今頃どこやらわかるものか。写真もってきてるのか。写真もなけりゃ手配のしようがないじゃないかいうて。高知へ帰って写真を送って来い。簡単に見つかるもんじゃない。どこをどう探すんだいうて。それでも、親としてはせっかく来たんだからと先生と警察の3人で地下街へ降りて行くところへ行った。あてもないがぞね。まったく。そしたらね目の前に娘がおった。降りるところで娘が目の前におるが。あんたこれ、いうて肩をたたいた。娘が振り返ってびっくり仰天した。お母さんもびっくりしたけども、先生もふるうた(震えた)いうた。このふるうたのはね、親の一念心やと思うたんじゃないか。子供を思う。ところが、この人(お母さん)は御本尊の功徳を頭にポンときた。思い定めて出た。岡山駅へ降りて2時間かかってない。それで1週間おらなかった娘をつかまえちゅう。これはね。その本人が一念心を定めた結果なんでしょう。

 
 
 

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