十四誹謗
- kisuke1965
- 2023年12月2日
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更新日:2023年12月3日
初代講頭座談会 2004年12月14日
遠慮なく。今年も最後になりますからね。松山は。今までも言いたいこともよう言うてないし。多すぎてね。大事なことが。だから今日はまず大聖人様がおっしゃっているとおり、戒定恵の御信心であり、そしてまた日常の生活そのものが定戒恵の日常の生活であり。そういうところからね、大事なことでね。なんで日常の生活をやかましく言ってるかっちうのはね。59世の日亨上人。あの方が書かれた何がありましてね。その中に十四の謗法(誹謗)を日常の生活に使いなさいという御文がある。日常の生活。それを心がけていない。信心だ信心だと飛び回って日常の生活はちっとも関心を持ってない。そういうふうな人は信心しとっても無駄だって。こういう御言葉があるんですよね。猊下の御言葉を拝してみると、信心信心っていったい何なのかということになる。信心って何か特別な人がするような錯覚を起こして。そしてまた信心したらエロウ(偉く)なった気になるのかねえ。結局は自分の仕事も二の段にしてしまう嫌いがある。そういう姿が大いに出てくる。見よったらね。そうなるとやってることだって杜撰なことになってね。自分自体が苦しまないかん。信心してる意味がなくなってくる。信心というのは仕事を助長さす意味合いがある。健康なものはなお健康になっていく。不幸せな者は不幸せな原因を知っていく。そういうことが一つ一つつかむことができる。これが御信心の素晴らしいところだ。そのためには自分自体の命というものをよく見つめておらないかん。そこに戒定恵の三学という言葉がでてくる。それからまた日常の生活に入っていったらいい。まず御本尊様のことをどう言うか。あるいは私たちの一念心をどう言われてるか。僕たちの一念は法界なんだ。一つの。法界は森羅三千ともいうし森羅万象ともいうね。森羅万象というものは個々の個体を持っているでしょ。森羅万象って空じゃないでしょ。いろんな姿がある。日蓮大聖人様は一心法界と名付けていらっしゃる。よくよく見たならばそれは万法。これが総体。万法の総体が日蓮大聖人様がおっしゃるところの御本尊様の云々なの。御本尊、御本尊というけども御本尊様とは万法の総体。万法の総体を3つに分けて戒定恵の三学になる。散じたならば六度万行となる。修行のあり方に変わる。それを合したならば六大秘法となる。六義。題目には事理。。もう一つ合したならば三大秘法になる。本門の本尊、本門の戒壇、本門の題目になる。もう一つ縮めたならば一大秘法に変わる。本門の本尊だけになる。開いてしまったならば万法の総体。本当の呼び名は戒定恵の三学。その別名を三大秘法といってる。これは宝塔品にある。大聖人様は宝塔品を引かれておる。本尊、本尊とはなにか。万法の総体なの。我々の一心もよくよく見たならば万法の総体なの。万法の総体は戒定恵の三学になる。一心とは万法の総体。分けて戒定恵となる。六度となり散じて万行となる。まさに知るべし本尊は万行の総体。これ寛尊の御指南なの。依義判文は。三大秘法とは即戒定恵なり。こういうふうにはっきりおっしゃる。自分たちの一念心が静寂なるときには、怒りというものができてきて破戒という。怒りが起きてくるんだけども怒りと命というものが合したとき破戒という。どういうことかといえば、南無妙法蓮華経と題目をあげて妙法蓮華経に帰一できた時は戒なの。そして定なの。題目は智慧だから。ここでいう智慧は考えてできる智慧じゃないから。あくまでも題目をあげていく中で本源。本源とは命を指してる。無作三身の命。あるがままの命。これが本源の命。心電図見たらね。ずーっとまっすぐ行ったら臨終でございます。ピッピと出ていたら大丈夫ですよ。規則正しく出よりますよ。これは生きてる証拠。いま説明してるのは、ずーっとこう行きよったら臨終だけども、ここではそうじゃない。これは定。その人が本源そのままに生きている姿。ピッピとなると乱れている。御脳が乱れてるわけだ。悩んでいるわけなんだ。自分の命が元に戻ったり。怒りが起きたり鎮まったり。それは外側のいろんな姿を見ながら自分が紛動されていく。御本尊様の戒定恵が分かってきたね。そうすると戒定恵をどこに使っているのかといえば自分の日常の生活じゃないのかね。日常の生活に戒定恵がある。私たちが信心してるのは日常生活にある。どこかの山の中でやってるわけじゃない。日常の生活そのものが戒定恵でなければいかん。堀日亨上人様の御文のように十四の謗法を頭に置くこと。そして日常の生活を心がけなかったならば信心するとも無益である。こういうふうに仰ってる言葉はよくよく拝しておかなければ。これは忘れんとってください。日常の生活を心がけなかったら南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経と思うても何の意味もないから。自分の仕事を真剣に取り組んどらないかん。真剣に取り組んでいく中に信心を忘れてしまうとどうなる。庇を貸して母屋を取られる。ここが怖いんだよ。この度合いを考えとらないかん。寛尊が注意なさってる。時間がありませんからという場合は注意しとらないかん。用事がありますからというて法門を聴聞しようとする姿勢がなくなった時はほとんど退転とみなしてええ。注意されている。そういう弱い気持ちの中に必ず魔が付け込んでくる。たとえば、功徳功徳。功徳ばかりを望んで信心している人。大聖人の御信心はそういう御言葉は方便であってね。建長五年から弘安三年の二十七年の間、在々処々にいろんな法門を説いた。それは何を教えるためだったか。これは即身成仏の義を教えるため二十七年間仰ってきたと。これは弘安三年。要するに釈尊が法華経を説く前に今までの法は真実を解き明かしていなかったと。これから真実を解き明かすと破折して真実を解き明かしたと。大聖人も同じようなことで、ただ即身成仏の義を教えんがためなんだと。そうしてみると功徳がでる功徳がでるじゃなくて、即身成仏の義を私たちはつかんでおるかということが問題なの。六世の日時上人様が、朝晩の勤行が即身成仏の義を含むがゆえに大変大事だと仰っている。そうすると功徳功徳で儲かるの信心をしていた人に、本当の話をして儲かる話をしないと疑心暗鬼になってくる。本当のことをわかってないから。功徳の出る話を一っつもしてくれんと。そういうときにおかしな連中が目の前に出てくる。功徳がある信心せんか。拝んだら功徳がでてくる。南無妙法蓮華経と唱えたら功徳がでてくるよ。するとそれにまたちょろちょろちょろと走っていく。それはなぜか。自分の一念心に迷いが生じている。そこにちゃんと誘い水がくる。命の働きとは恐ろしいよ。そんなことがある。さっきも言ったように堀日亨上人様の日常の生活を心がけなかったなら信心するとも無益ですよということなの。昔のことだけども、夜のことですけど、残業を放って来ましたという人には仕事へ行きなさいと帰した。こういうふうなことを教えられていたから。この御信心は戒定恵だから。戒定恵だから家の中で難しい顔してツンケンツンケンしてみたり、自分の気の入ったことができないから腹を立ててみたり、人さんにつらく当たってみたり。そういうことをしてはいけませんよと。御本尊様を拝んでる意味合いがないじゃないか。御本尊そのものが戒定恵なんだから。戒というのは受戒のときにしたろう。定は御本尊様を信じることだろう。強い一念心を持つことだ。御本尊に向かうことなんだ。恵ということは智慧なんだ。恵とは御本尊を信じることから出てくることだから。そこに題目があがっていく。題目だってあげている云々じゃない。本当はね、真実信じておりますかということ、が本当らしい。題目あげておりますか、じゃない。本当に御本尊様が信じ切れておりますかということ。だから大聖人様は能持此経の人はまれだと。今の時代に真実にたもっていける人はまれなんだと。まれな人になればなるほどに真実妙法蓮華経をたもっていただきたい。成仏得道の義ということがある。道は万法の総体。ものを活かしていくありよう。道理の道は。理とはひとつのあや。言葉のあや。お互いに生活してる。万法の総体。万法たって空じゃないろう。木があり土があり石ころがあり川は流れてる風は吹いてる日は照ってる生物は小さな虫も動いてるわれわれ人間も活動してる自動車は走ってる煙は出てる。これ全部万法の総体なの。ジッと見たときには生きていくものは生きていく条件を整えちうろう。生きていく条件を整えたうえにおいて活動できてるろう。木であっても条件が整わなかったら枯れていくろう。個々の条件を整えちうろう。人でいうと幸せでいく人は幸せでいく条件を整えていくのよ。そのことを注意されているのよ。不幸せになるものは不幸せになる生き方をやっていくのよ。その人、本人の行動からでていくのよ。死んでいくものは死んでいくなりの自分から命を絶つような行動を起こし始めていくのよ。それを注意されてるのよ。本当に幸せでいく人といかない人はこういうとこが違うのよ。(うまくいかない人は)それが当たり前だと思い込んでいるのよ。そういう生活が。日常の生活に心がけてやっといて頂戴よと。さっきも言ったよね。そうよ。十四の誹謗よ。全部自分の生きていく条件を殺していくのよ。だから十四の誹謗を日常生活に使いなさい使いなさいと口酸っぱく言ってるのよ。堀日亨上人猊下の御指南なんだよ。これ。みんな信心だけしか考えてないと注意しうろう。そうじゃないぞそうじゃないぞと注意してきたろう。南無妙法蓮華経と題目をあげて幸せになっていくには考えてみないかん。日常の生活。道理に合うた生活ができているかどうか。寒ければ着たらええ。暑ければ脱げばええ。春が来たら花が咲く。幸せでいけれる人は幸せでいけれるような心構えをもって行動してる。そして自分が幸せをつかむような一つのありようを見ている。大聖人は十字御書で幸せというのはその人の命の働きだと。不幸せというのは自分の口から出てくる。これも実は心からだ。命の働き。それが言葉に変わる。
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戒定恵 十四誹謗を日常生活に使うとはどういうことか考えてみてね。
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