功徳とは
- kisuke1965
- 2021年2月6日
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更新日:2021年5月17日
初代講頭座談会2002年2月21日より
・功徳とは
僕はよく功徳をいただく方の信心のありようを人さんの姿を見ながら説明している。こだわっている人には功徳は出ていないといつも言ってる。物にこだわってこうだああだと言ってる人には功徳が出たためしはない。ところがもうどうなってもいいんじゃないですかと放った人にはみんな功徳が出ている。なんでこだわったらいけないかというのは、しいよいことなの。執着してる。執着しているとはどういうことか。自分自体地獄に突き落とされているの。ああなりたいこうなりたいという欲望が重なってきましたらね、それによって自分の本当の姿が見えなくなってしまっているの。大聖人様の仏法じゃないの。そういうのがあるからダメですよと言ってるの。宿業とか宿命ということもよくいう。同じことの繰り返しをする。宿業というものはその人の命に染みこんでいるものなんですから、その本人の考えというか、そういうふうなものが変わらん限り、なんぼ南無妙法蓮華経と題目をあげても無理というもの。南無妙法蓮華経と題目をあげることによって、その人の考え方が変わってきよるわけで、命というものが宿業が変わっていくとはそういうことなんだ。その本人の持ってる命の働きというものがあるんだ。欲の深い人は、物に執着している人は何を見ても値踏みしながらやっていくという癖を持ってますから、あらゆる面にそれが出てくる。内向きの性格の人は言いたいことも言えずに何度もチャンスを逃している。積極性のある人はパッパパッパ言わんでもええことまで言っているから、それによって自分が苦しんでいる。それを業報とか宿業といってる。その本人が気が付いて直していけば直るわけです。それが宿命を変えていますねということ。こういうことも知っていただきたい。難しいことは一つもない。御信心の話とは南無妙法蓮華経の話に変わりませんけど、実は自分たちの生活のありようをいってますから。功徳といっても雲の上に出てるわけじゃない。山の上に出てるわけじゃない。自分の生活の中に全部出てるんです。誰が出してるかといえば自分が出しているんです。自分自体が変わらん限りは何ともなりませんよということを基本において話をしているわけで。だから南無妙法蓮華経と題目を上げても自分が変わらんということくらい情けない話はない。自分が変わっていくことが功徳。
・執着はいかん
我々は、願求を捨てなければならない。間際になって初めて捨て鉢の大活動をする。その時に利物(りもつ)の光を仰ぐことができる。吾人は願求あることに渾身の力をふるって邁進する必要がある。(願い事があるのであれば全身の力をふるって願い事に向かっていかなければならない)。大聖人仰せに、我が弟子ら試みに法華経のごとく身命を惜しまずに修行して、この度仏法の成就を試みよ、の誓言を聞き流しにしては相済まない。人が願求するとき、最大の結果を得んとするさもしい欲が首を出している。(これがダメなんだ)。こうなったらこうする。こうなったらこうなっていく、というさもしい、いやらしい欲がすごく怖い。これが光を妨げたる邪魔者になる。すなわち執着です。とにかく求むる心があっては真の感応道交することはできない。祈りに祈ってもその徴(しるし)は出てこない。絶体絶命。災難に打ち勝っていく。災難に目を引っ付けてはいけない。金は勝手に来るものじゃない。金銭を引き寄せる活動をできる自分になっていかないかん。ここでは、己自体がどんどんどんどん変わっていけと言われている。執着の心を、誤って強情のそれと思い信心を間違っちゃいかん。執着しとるのが信心が強いと思っている。それは間違いだ。強信とはそうじゃない。御本尊を信じ切れた。そして、日常の生活そのものにいつも功徳を感じながらやっていく人が強信なんだ。こういう風なありようをとっていくところが本当の信心のありようなんだよと注意されているわけだ。こうなりたい、ああなりたいはええけども。こうなりたい、ああなりたいは明らかで自分が持っておらないかん。これは目標ですよね。ほんなら何も思われませんか?よく質問する。これは愚の骨頂でしょう。そうじゃないろう。自分はこうなりたいというひとつの人生観があるわけだから。それは自分がこうなっていきたいんだと思うたならば、それは持っとらないかん。持っとらないかんけども日常の生活において南無妙法蓮華経と題目をあげながら、早くそうなりたいそうなりたいじゃなしに、その思いは持ち続けていく。しかし、それはどうなるこうなるじゃなしに、自分の希望がある限りにおいては、その希望に沿うていく自分に変わっていかないかんわけだ。行動しとらな。たとえばこういうふうなことがやりたいです、と言いながら他のことばっかしやりよったんでは、いつまでたってもできるもんじゃない。そういうことがやりたいと思うのであるならば、そういう本に目を通していくことも考えなければならない。そしてその中その中において無理をしないように、道理に合(お)うた行動をしていくことが大変大事なんだ。だから仏道修行、仏道修行というのは拝むことの修行を言っとるんじゃないんだ。ここでは。日常の生活のありようの修行を言っておる。大聖人は。それは行住坐臥におけるところの御信心のありようですよとか、仕事そのものも修行ですよというふうに言われているわけで。だから仕事をなおざりにし仕事に不正を持ち自分のやり方の下手なことを棚に上げてどうだとかこうだとか言っとる間は功徳なんて出るもんじゃないと昔からいわれてきた。だから執着ほどいかんものはない。
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