刹那成道
- kisuke1965
- 2023年3月26日
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更新日:2023年3月28日
初代講頭座談会 2006年3月6日
(娘の出産で生まれそうになり、夫婦、娘夫婦揃って車で病院へ向かった。病院の時間もぎりぎりで。踏切で止まったり。。)信じるものとか頼れるものとか、あるというのはすごいですね。←質問者
だけどね、頼るということは自力本願じゃないからなあ。他力本願になってるなあ。そうでなしに、所詮は己自体の力だからなあ。だから刹那成道という言葉がある。刹那成道とは人に頼ってるんじゃないんぜ。自分でやる以外ないんだぜ。刹那成道は。どんなに仲の良い夫婦であっても。最後は自分がやる以外にないんだぜ。主人はやってくれないんだぜ。自分しかないんだぜ。その時に今までの話をどう聞いとったか。そして、どういう話を主体にした付き合いをしとったのか。これがモノを言うで。三十年四十年間、平平楽々でなにしとっても、たったその刹那において自分、地獄の境涯に変わるんで。たった刹那だ。その時にはねえ、三十年四十年の平平楽々。平平楽々とは何の苦悩もありませんでしたという話。これがね、たった一瞬の間に地獄の境涯を味わうんで。なにもかも吹っ飛んでしまうんで。吹っ飛んでしまって、目の前に残るのは地獄の境涯が残るんで。これがみんなはそういうことがないと思うてるんだ。
(何があるか)わかりませんねえ。←質問者
わからんじゃない。現実の問題としてあるんだこれが。生きてる今、それがあるんだ。例えば朝の九時から遊びに出ていくの。楽しかったねー楽しかったねーと言って帰ってきて。ええですか。腹痛とか、思いもかけん病気になるとか、事故が起きるとかになった時には、遊びに行った話はどうなるか。どこっちゃにないろう。残ってるのは現実の問題としてその苦しみだけしか残ってないの。これが刹那成道の云々の姿なの。その時には四十年五十年たとえば六十年間、こんな人生はなかったと言いよった人がやり損のうたならば、一瞬の間に修羅場になっていくんだよ。苦しみにのたうたないかんのよ。そうしたならば今までの楽しみは何ちゃないわけなのよ。残ってるのは苦しみだけ。その苦しみから逃れることだけしか頭にないわけなのよ。これ、現実の問題の話してるんだよ。これが現実なんだよ。だから新聞見よったら、交通事故で死んだとか、何して死んだとか、家に来られた方が〇〇町の畳屋さんの話をしとったけども。あっこの畳屋さんに畳の入れ替えしてもろうたちうて。でも、その人業報だろか言いよったけれど。業報しかないよな。うん。なんぼそういうふうにやっとっても、イザになった時にはそうなってくる。今でも放っとかれちょるよ。焼けた自動車が。そうで。それがいつ我々の身の上に来るやわからんのよ。だから僕は自動車運転してるけれども、すれ違う時に癲癇起こす連中とかヒステリー起こしとる連中とか。どんな連中とすれ違いよるかわからんぞと。まともに来よると思ちうのが不思議なんぞと。まともが不思議ぞと。まともでないのが当たり前ぜと。そういう連中とたえずすれ違いよるがぜよと。よほどこちら側に果報というものがなかったらやり損なうぜと言うのはここなんだよ。自分自体で防ぐ以外にないんだこれは。相手じゃない。こちらなんだ。それを防ぐのは何が防いでいるのかと言えば、自分の果報しかないんだよ。自分の徳がそれを防いでるんだよ。だから今の世の中、徳というものがなくなってきてる人、多いから、すっとすれ違ったら腹を立てる、人を刺す、泥棒する。そういう世の中に変わってしまったけれど。その中において安穏に住していける生き方を僕たちは知っているんだ。それはもう徹頭徹尾妙法蓮華経を信じ、妙法蓮華経を生きていくということしかないんだ。そこに初めて守られていく。さっきの眼の功徳。(六根清浄)。行かれんとこは行かん。自分じゃ分からんけども、いかん(ダメな)とこは行かん。行かないかんけども、用事ができて引き返した。そのまま行ってたら大変だったけども救われました。そういうことがあるわけなんだ。これ全部功徳なんだ。妙法蓮華経の。だからそれには自分自体が刹那成道ができる自分になっとらないかん。刹那とは一念心だから。一念とは長いもんじゃないから。だから寛尊は一番大事なことは刹那成道だ。臨終のときの刹那の成道。人を頼るわけにはいかん。私は今から死にますけんねえ、そばにいてくださいというわけにはいかない。
くっくっ(笑い)。それ来る時に同じ話してました。←質問者
けども不思議なもんで、信心してるときには行こうと思うのに足止めされて、そばに立ち会うておれれるわね。そこで臨終をちゃーんとまともに見ていく。普段行かないのに臨終に立ち会う。僕の母親がそうやったぜ。滅多に病院行かなんだね。そしたら甥が「おんちゃん、ひとっつも病院行かんじゃないか」。姉が「〇〇。たまには、母親のとこへ行っちゃり。私もたまには家に帰りたいき。まだ大丈夫と思うけど」。言うから。「儂が行くけん、どうなるかわからんけどね」と冗談半分言うたけどね。それで僕が言って目の前で臨終したんやけどね。医者が言うたよね。大往生とはこのことでしょう。こうなっていくのよ。不思議なもので。問題はこちら側が刹那成道ができる自分かどうか問題なんよ。たとえ日常がよくても、なんぼ十年間よかっても二十年間よかっても三十年間よかっても、そこに苦痛を伴う問題が起きたときには、今までの喜びは全部なくなっていく。振り返ってみたならば、なんちゃないわけなんだよ。その苦痛との戦いだけ残っちょるわけなのよ。これが人生で。だから人生というのは臨終のときに。。考えてみたならば甘いもんじゃないぜ。その臨終正念ができるかできないか。大きな問題を抱えこんじょるぜ。お互いが。みんな甘いからなあ。目の前のことに、移ろいに、身をゆだねて平気なもんじゃ。御文に出てくるじゃないか。
ヒー。(悲鳴)←質問者
大聖人様の御文に言葉は違うけれども出てくるじゃないか。こういうことを心得て信心しとれと注意されとるじゃないか。それがいつの間にか信心いうたらオカルトの話ばかりになってきた。信心したら病気が治るという話ばっかりした。これは創価学会、顕正会の罪よね。だからあんなもんやりよったら、罪障積んでめちゃめちゃになるわな。自分の境涯は。こっちの大慈大悲が足らんからね。まだまだ力がないき。大聖人様の御計らいをいただかんといかんけども、救えん。
私たちだけでも救ってもらおうね。。(笑い)←質問者
みんなそれは出来よるろう。大聖人様仰せのとおりに、みんなで集まって。ああでもないこうでもないと御信心の話をして。御指導どおりやってるわけなんだ。一人信心してないろう。励ましあいながら、注意しあいながら。これをせえという。これをせんとって自分だけでやってるから信心がずっこけていく。正しいつもりでずっこけていく。ずっこけている人はわかる。生気がなくなる。どんなに力んで笑っても生気がないからね。嫌なもんで。
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