刹那成道
- kisuke1965
- 2022年1月9日
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初代講頭座談会 2007年1月29日
いろんなことがあるのが当たり前でしょ。それがこの世の中のしきたりだから。この世の中は順調にいくようなもんじゃないんだから。大聖人様がはっきり仰っていらっしゃるように、よからんは不思議悪しからん(わるからん)は一定と思え、じゃき。これ忘れたらいかんこの言葉。だから悪しからんは当たり前のことなんだよ。よくいくっちゅうのが不思議なくらいなんだ。これが世の中の話なんだ。だから別の言葉で言ったならば、釈尊がこの世の中のことを娑婆世界と言ってる。インド語で。日本語にこれを訳してみると娑婆ということは悪い意味あい、穢土という意味。汚れた世の中。だから仏をば能仁とは申すなり。仏という言葉は能仁と訳される。よく耐え忍ぶ人の話なんだ。どういうことにぶつかって行っても耐え忍べる人が仏なんだ。目先のことだけに振り回されている人は、天気がいいと有頂天になっておる。ドブへ足を突っ込んでしまうと痛い痛い痛いと。
これは、御文で勉強もしておらんき余計なことの話なんだけれども、実は曽谷殿に対して境地の二法という法門をもってお示しあそばしておられる。皆さん方境地冥合(きょうちみょうごう)ということをよく聞くわね。まず今お題目をあげましたけども、御本尊様のことについてどうおっしゃっていらっしゃるかというと、この中央の七文字の南無妙法蓮華経は仏界なり。我々が唱え奉るところの南無妙法蓮華経は仏界なんだ。そして唱える我々は九界なんだ。そうすると十界互具と言ってるろう。私たちは九界なんだ。菩薩界までなんだ。ところがこちらの南無妙法蓮華経は仏界なんだ。境地の二法とはなにか。境ということは万法の体(たい)。万法の体とは意味合いが深いわけで、要するにふち、ほとり、きょうえんというんだけど、計り知れない深さがある。そして我々の知恵。仏の境涯、知恵というものは測りがたい。それが境地冥合ということは、私たちの姿を検証する。これが境地の地になる。自分たちの姿を現すわけだ。何に現すかというと万法の体におうて一つになっていく。だから天気がええなというたら、天気がええになってしもうて自分自体の知恵というものが天気という一つの境涯に冥合してしまう。そしたら自分の気持ちがうんと良うなってくる。冥合している人は。冥合してない人はちゃらんぽらんな考えを持っているわけだ。全然違った考えを。要するに苦痛なんか感じながらやっている人は、天気が良かろうが悪かろうが関係なしで、その問題が解決したらいい、その問題が解決したらええという、一つの境涯に押されているわけなんだ。その問題が起きていることも実はその人の境なんだ。境というのは万法の体だから。万法というのは地獄界から仏界までが万法なんだから。そうするとその本人が地獄の境涯に身を置いとるのか、それとも仏界という境涯に身を置いとるのか、それとも餓鬼界というものに身を置いて、毎日毎日の生活を考えておるのかということ。その本人の知恵というものはそういうふうに働いているわけ。だから仏になる道は何が大事かというと境涯がうんと大事なんだ。どういう境涯に自分が身を置いとるかっちゅうことなんだ。だから即身成仏即身成仏と言ってるけども、自分が仏になる道は、何はさておいても自分の置かれておる境涯というものに対して自分が自覚を持っとらないかん。どういうものに対して自分がどう行動を起こしておるか。これ日常の生活でいったならば。それが曽谷入道殿の御文の中に説明されていらっしゃるわけだ。だから私たちは常日頃から朝晩において唱え奉るところの七文字、すなわち南無妙法蓮華経は仏界なりと。唱える我々は九界なりと。九界の者が仏界の御本尊に向かって手を合わせて南無妙法蓮華経と。これが十界互具の本当の姿なんだ。そして地獄界だろうが、それが餓鬼界だろうが、唱える題目によって餓鬼界の中の仏界を現じ、あるいは修羅界の中の仏界を現じながら毎日毎日をやっておるわけだ。それに対しては自分自体の知恵、知恵すなわち自分を検証する。姿を現す自分がどんな姿を持ってるか。姿といってもこんな姿じゃない。ここ(胸中)の話だ。ここをどういうふうなものをもって自分が常日頃から自分の境涯に対して即応できる立場におれれるか。これをつかむことができなかったら即身成仏は出来ない。即身成仏とはそういうことを言っておる。即身ということは身だろ。南無妙法蓮華経と題目をあげたら即、身に行くわけだろ。身とは生命だろ。色心不二だから。そうすると即身成仏とは、自分の身体、生命そのものが南無妙法蓮華経と題目をあげることによって即、そこに成道を遂げれる。これが大事なことなんだ。これを即身成仏といってお互いが歩むところの本当の即身成仏とはこういう意味合いなんだ。
だから後生成仏ということは当宗(日蓮正宗)においては考えられんことなの。よく生きとる間は苦労しても死んだら成仏してからね楽になるからね。こんなことは考えられない話だ。日蓮大聖人の仏法には後生成仏はない。今生における成仏というものが大事なんだ。今生の成仏がなかって後生の成仏は考えられない。これは日有上人様の説法なんだ。だから生きてる僕たち自体がいまやっておることにおいて、ひとつひとつ自分の道を開いて、どういうふうな不安な状況の中においても泰然自若として乗り切っていけるだけのものを持ってるかどうか。その本人自体の成道はそこにかかっている。これを刹那成道といってる。私たちの生活は一刹那だろ。成仏は。「ただいま」という時間は刹那だろ。もうすでにしゃべっておる中においても過去になりよるろ。そして未来未来と進んでいきよるろ。それが私たちの生活なんだ。
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