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以信代慧

  • kisuke1965
  • 2022年11月6日
  • 読了時間: 6分

初代講頭座談会 2002年11月7日


初心的なことから話をする。根本的な話になるからよく聞いてほしい。なぜ現証が出てるかという話をします。


質問者 (御本尊様に)お任せした以上はなにがあっても。。いい?


えへへへー。その話を今からするのよ。よー聞いとってよ。あなたがおっしゃるようにねえ。お任せしましたというのであれば、何があってもええじゃない。あるのが当たり前。お任せしないでもあるが当たり前。してもあるが当たり前。なぜかというと過去の宿業だからよ。寛尊の言葉を引きますよ。現世利益は即身成仏と同じ意味合いで、受持の一行によって成ずるものであり、現当二世とは過現未を受持したうえの現で己心の法門にあるべきものである。説明します。現世利益。生活のうえにおいて功徳という姿が出てきます。いろんな姿が。即身成仏ということは現世利益と同じことなんだ。即身成仏とはどういうことかというと、三世諸仏総勘文教相廃立に述べられている。「己心と仏心とは異ならずと観ずるが故に、生死の夢を覚まして本覚の寤に還るを、即身成仏と云うなり。即身成仏は、今、我が身の上の天性・地体なり。煩いも無く、障りも無し。衆生の運命なり、果報なり、冥加なり」。分かりやすく言ったなら、南無妙法蓮華経と題目をあげたならば、何が起きてきても障りにならない煩いにならない自分になってなければならない。何か起きるたびに、ああだこうだと振り回されている。これじゃあ即身成仏もへったくれもない。受持の一行。これが問題なんだ。この受持の一行ができてないと振り回される。なぜかというと我が智慧でもってモノを判断しようとする。これは自分の智慧では何ともならない。故に大聖人様は我が智慧堪えざれば信に代えなさい。以信代慧という。およそ古の人の徳というものは、不可思議な徳がある。ところが今においては、そういう徳というものはない。そういう徳をどうやってつけていくかと言えば、我が身そのものが天性・地体であると知ったらいい。これどういうことか。妙法蓮華経だということ。自分の身体そのものが。それだけじゃない。一切の物体、あらゆるもの。起きてくるいろんなもの。全部それが妙法蓮華経なんですよと大聖人は仰る。それをつかむことが大変大事。だからこの世の中を夢中の権化という。虚仮の世の中ともいうの。では本来は何かと言ったならば、これ(板書きしたので何かわからない。。)が本体なんだ。いま御本尊に御祈念申してもね、自分自体がこれが分かってないとね。ようするに。いろんなことに振り回されちゃう。いろんなことが目の前起きてくるから。これが世の中。ところが全部仮の姿でね。いつまでもそれがあるわけじゃない。早い話が我々自体が、あと30年、50年生きていられるか疑問なんだ。50年もたてばみんな変わってしまっているだろう。否応なしに。そんなもんよ。そういう世の中において自分自体は一体何だろうと、よく見たときに天性・地体。すなわち地水火風空の五大なんだ。すなわち南無妙法蓮華経とこれを名付ける。これを知るにはどうしても大事なことが一つある。これは言うてええのか悪いのか。よう掴むか掴まないか分からないけども、自分自体が久遠元初に戻らなダメなんだ。久遠元初の大昔に戻った時に初めて分かる。久遠元初の大昔と言ったら一体何かと言ったら「今」なんだ。現在が久遠元初。現在のどこが久遠元初かと言うたら生死の中間(ちゅうげん)。それが久遠元初。生きる死ぬるの中間なんだ。これを名付けて寛尊は久遠元初と仰っている。すなわち末法はどこまで行っても、尽未来、どこまで行っても久遠元初の大昔なんだ。中間。そこにおるのはひとつの物体じゃない、生命の問題になってくる。だから己心の法門にあるべきものと言われている。自分自体が命をもって悟っていかないかん。物体じゃない。そうして初めて、慧堪えざれば信に代えてみる。今言っていることは難しい。南無妙法蓮華経様の功徳はものすごいけども、実は理解は大変難しい。そうすると理解はなかなかできない。できなければどうせよ。大聖人は、信を以て慧に代えなさい。本当に御本尊のすごさを知ろうと思えば、信、これ一つになりなさい。信ということは受持の一行なんだ。受持ということは信じ、そして信じたがゆえに行動を起こす。これが受持の一行なんだ。だから信じておりますけども、問題があったらフラフラしております。といったら、これは信じたいうても。。受持の持は、たもつなんだ。持(たも)つということはどういうことかと言えば、いかなることがあっても自分は疑いませんということが持つということなんだ。受持の一行につきるとはそういうことで。本当に御本尊様が信じれたならば、目の前に何が起きてきても問題じゃない。その問題がまた全部解決していくと信じれる自分にならないかん。それは妙法の力がすごいからなんだ。だから、慧堪えざれば信に代えるということは、自分の智慧をもって、この問題は解決するだろうか、こういうふうな問題になっとるんだが解決どうやってやっていくんでしょうか、このことはこんなんですがどうなっていくでしょうか。これから先のこと自分の智慧で判断できる?できないろう。慧堪えざればなんだから。自分の智慧じゃ何ともならない。そういう時に妙法蓮華経の力。すなわち信を以て、南無妙法蓮華経と行った時には、それそのものが智慧と代わる。自分では手の付けようがないと思いながらも、不思議なことに自分がするわけでもないけども、ちゃーんと手を付けられて一つ一つ解決に向かっていく。だから、どんなに何ともならんような子供さんだろうと。それがなんであろうと。そんなことは問題じゃない。何ともなりませんと言ってるのは自分が言ってる。自分が勝手に決め込んでしまってる。でなかったら不軽品の二十。法華経の中に。みんなそれぞれ正因仏性、三因仏性か。みんな仏になるというものを持っている。ゆえに一閻浮提総与なんだよ。この御本尊は。一閻浮提総与というのはみんなの命の中に仏になるというものを持っているわけだ。だから、あれはいかんこれはいかんと決めてかかっている人は、これは自分自体が決めてかかっている。仏様じゃない。だからどんな状態が起きてきても案ずることは一つもいらん。南無妙法蓮華経と信を以て取り組んでいけば。もう一回言いますよ。現世利益は即身成仏と同じ意味合いで受持の一行によって成ずるものだから。すなわち、いろんなことがあっても法を信じて疑わないという自分でなかったならば現当二世、過現未を受持していく上の己心の法門というものが言われてるから。己心の法門だから。それができなかったら手の付けようがない。だから困った時の神頼みで。これをオカルト信心という。大聖人の仏法はそんなオカルトじゃない。自分自体がどうやっとるか。いうことによってやっていく。44世日宣上人猊下の御指南をよく言いますけども。自分だけじゃない、子供もおる、主人もおる。一家をあげてやっている。じゃったならば自分自体が本当の信心に立って、法ということが分かってきたなれば、自分の信心の功徳によって家を守っていこう、子供を守っていこう。それができる。そういうふうに仰っていらっしゃる。そういうところをよく心得て御信心に励んでいただければええと思う。

注:三世諸仏総勘文教相廃立。(真筆なし。にせもの、似せて書かれた説が濃厚か)。

  知恵のほうがいいかなと思うところもあるけど智慧で統一しました。

  昨年5月の子供の転落骨折事故で、上記のことは体験できたかな。不思議です。自分は何をするでもないけれど元の状態に戻っていきます。あと、リンク先で仏の使いとか書いてますが。。大聖人の仏法では、人の中に仏を見るのが正解かな。令和3年を振り返って

 
 
 

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