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仏法は生活法

  • kisuke1965
  • 2022年6月4日
  • 読了時間: 11分

更新日:2022年7月3日

初代講頭座談会 2002年6月25日 (S=初代講頭SYODAIKOTOH)


S:「U」知っちょる?

A:ああ。この間、聞きました。

S:新聞出ちょったろ。

A:新聞見てないですけど。(顕正会の)支部長されとった?

S:僕らがやめてからね。なんかやりよったやけどね。

B:新聞出てましたね。見たら。

S:山越しで。~夜中に。

A:現役で、やったんですか?

S:現役やった。面白いもんでね、顕正会は。あれはもう一年前に出入り禁止にしちょったとかね。いろんなこと言うてね。もうとうの昔に除名になっちょった人だ、とかね。いろんなこと言うて、人誤魔化すんじゃねえ。あれ、犯罪を起こす二日前に来ちょったけんね。

A:会館に?

S:そうよ。ようまあ、あればあウソが言える。オカルトじゃけんこそ言える。カルトじゃなかったら言えたもんじゃない。あっこまでウソをね。だから、御信心というものをいかに利用しよるか、わからあね。顕正会は。だから、本当の大聖人様の教えなんてわかるはずがない。日蓮正宗の怖さはね、全部オカルトなのよ。日蓮正宗の怖さは今ここにある。カルト教団になってる。カルトというのは、そこのグループの中から外を見たら一切いかんのじゃろ。これがカルトなんじゃ。自分のところは絶対正しいんだから、お前たちこの中からこっち(外)を見たらバチが当たるぞというのがカルトなんじゃ。それをやってるわけだ、日蓮正宗は。だから教義もへったくれもないが。大聖人の名前使うんだけども。早い話が、「不軽菩薩の利益これなり」というふうに四条殿におっしゃっちゅう。崇峻天皇御書。法華経の精神ちうのは不軽菩薩の精神ですよ。いうふうに注意されとる。ところが今、日蓮正宗は全部それ否定するわけ。そうじゃないんだ上行菩薩だって。こうやるわけ。上行菩薩の精神じゃなきゃいかんとか。ところが今度は面白い話で、御本尊様の表装は赤では功徳が出んとこうやる。表装の赤は功徳が出んと。だから赤はひとつも功徳が出んもんで、赤をやめて全部色を変えないかんというわけで、赤やっちゅう御本尊は功徳が出ないと、全部取り上げていくわけよ。今それをやっとるわけよ。あんたとこも、なんか言うちょったろ。

C:なんか赤はいかんと言われたとか、言うてました。

S:そうそう。知らんのよ。これ一つも。説明しといてあげよう。上行菩薩の徳というのは火徳なんよ。火の徳なんだ。火というものは焼く。そして明るさ。こういうものをもって行とする。で、「火は焼照を以て行と為し・水は垢穢を浄るを以て行と為し・風は塵埃を払ふを以て行と為し・又人畜草木の為に魂となるを以て行と為し・大地は草木を生ずるを以て行と為し・天は潤すを以て行と為す・妙法蓮華経の五字も又是くの如し」生死一大事血脈抄(コピペ。。)ようするに菩薩の功徳も斯くの如しとこうおっしゃっているんだ大聖人は。御書にある。すなわち上行の徳は火の徳なんだ。火というものは上に上がっていく。明るい。すなわち火徳なんだ。その意味合いをもって表装は赤(あこ)うにしとったわけだ。こういうこと知らんわけだ。おそらく知っとるはずなんだけども。こんなこと言ってんのはこのあたりだけじゃないか。馬鹿みたいなこと言ってんのは。それは戸田城聖氏が言い出したことなんだ。創価学会が。戸田城聖氏と堀日亨上人が言い出した。それは昭和26,7年までは表装は全部赤かった。赤(あこ)なきゃいけなかった。今言った上行の徳だから。ところが真言も念仏もどこも表装は赤いわけなんだ。だから紛らわしいというわけで、表装、赤をやめて他の色にしようか。じゃあ、そうしようそうしようとなったのが他の色なの。そういうことだ。だからね。赤の色で表装した御本尊様。浮き出てくるわけだ。ところがこういうふうな金箔の色だとか他の色でやったときは浮き出てこない。沈むで。御本尊が。そういうこと知っとったらええ。これは常識だ。

表装が赤かったら功徳が出ん。なんでかと聞いてご覧。理由がないから。おかしい。これオカルトの話だ。こういうふうにおかしなことを言ってる。言う必要はないで。お母さんに。あんたが知っとったらええ。じゃあ、こういうことはどこに載ってるかというと御義口伝に載ってるんだよ。きちーっと大聖人様教えてくださっとる。法華経の湧出品。四菩薩が大地より出生してくる。そのことについて大聖人様が述べられて日興上人様がずーっと筆執って、そう書いていらっしゃる。そういうことですきに。御本尊が赤かったら功徳がないちうのはおかしなことになりましてねえ。御本尊様いうのはひとつの偶像じゃないですから。そういうことになってくると偶像になってしまいます。

そうすると南無妙法蓮華経は大聖人様が己心中の法門ですから。そしてまた我々自体の己心の一つの有りようっていうのは妙法蓮華経であり、久遠元初からの持ち物で、ずーっと不変であって。変わることのない、実在するものなんです。それが妙法蓮華経であり私達の命なんでね。あらゆる存在というのは全部変わることなく存在しとんです。そうやって知ってることを理といってね。それを今度は事実として、ここへ取り上げて、自分たち自体が実際の姿を現そうとしていくのが、これが事ですからね。事の法門だから。こういうふうな理と事という大事なところの食い違いというのをわかっていないと。

例えばそこに「一期一会」とあるね。これ読んだ。読んで、ああ、一期一会なんだなと。これ意味はどういうこと。一期一会の。

B:その時を大切にする。

S:文字の解釈は。文字の解釈は一期といったならば大聖人おっしゃられるように、私達の人生が一期だろね。私達の人生の中でたった一回しか会えない。それが一期一会だろう。だから大聖人が如説修行抄の中で「一期を過ぐる事程も無ければ」というふうなお言葉をつかってらっしゃる。僕たちの人生の有り様そのものの話だろう。一期というのは。これ理屈だろう。一期一会、一期一会いっちゃったて。一期一会。こういうことなんだなとわかった。しかし自分自体がその思いというものを、そこに姿として出してこないやったならば理だろう。これ。あくまでも。私達自体が、自分の命でございます南無妙法蓮華経はと言っても。みんな、それを文字で解釈して。理屈の上でこうだとかああだとか。言ってるけども。じゃあ妙法蓮華経を大聖人が地獄から仏界まで十界。これそのものが妙法蓮華経の体ですよとおっしゃってるが。わからんろう。ひとつも。けども、あらゆるものが全部妙法蓮華経だと、こうなったときに。こういうふうに数珠を見ても妙法蓮華経だと思うたときの思いと。あ、これは数珠だなというだけの思いというものはちょっとしたとこによって、自分に微妙に反映してくるものがありはせんろか。自分なりに。そうすると、これ妙法蓮華経だとこう思うて手にとってしげしげと見。そして妙法とはこういうもんかいな。この妙法というものは、ずーっと未来永劫実在し、変わることのないもんであるということがわかってきたときに、初めて私達自体の生命の有り様ということにたいして気が付き始めてくる。それ自体が要するに事であって。そうすると若退若出(にゃくたいにゃくしゅつ)いうて、生まれてきた、死んでいくということなんだけども。これだって実際においては本来の姿ではなくして、じつはこれは仮諦(けたい)。仮の姿であって。本当の姿は。すなわち生命そのままの有り様であって、あるときには姿を変え、あるときはこうなるふうなものをもってきて出てくるんだよ。そしてまた戻っていくんだよというふうな説明があるよね。自我偈の中にでてくるよね。この説明が。そうしたならばそれを実際において生命というものから、じーっと見てきたときに、ああそういうものだったかとなって、自分自体の人生というものがまた道をぱっと開いてみたときに。いろんな問題が起きてきゆけども、これも実際よくよく見たならば生命の活動の一つの過程の中にあるようなもんで。縁にふれて。こうなってくると全部縁にふれるから。縁というものは原因があるからこういうふうになる。そういうふうなことがつかめるのかつかめないのかが信心なの。そういうことをつかんでしまって、自分自体が、ああ自分ってのはこういうもんだったなとなったときには、一つの有り様というものが変わってくる。ものの見方が変わる。対応が変わる。そうしたときに初めて一期一会の意味合いがわかってきだす。

だから一期一会、一期一会と簡単に言ってるけども。実際、一期一会なんていうものは。ここに糸の束を持ってきたとしよう。何千本、何万本という束の中で、切ったその切り口というもの。そのものがピタッとギザになっちうものがぴったり合うと。その何千万本もの中から一本合いましたと。これが宿縁だろう。この一期一会というのはそういうふうなもんで。やっと会えましたと。もう離させんぞと。そういうふうな思いというものができていく。それが私達、信心していく中において一期一会の思い。それはなにか。大聖人様の法門を聴聞するときに。その一期一会の思いをもって法を聞く。もう二度と聞くことができない。そういうふうな思いを持って聞き始めていくと。おんなじこと喋ってる。過去から今日(こんじつ)まで。僕らも50年、60年。おんなじこと喋っている。しかしおんなじこと喋りながら。喋っている意味合いは全部違う。おんなじように聞いている人の有り様と。そしておんなじようなことを聞きながらも全く取り方が違(ちご)うてくるのは、その人は成長している。

自分自体の信心が成長しとるかしてないかは、人に聞く必要はない。自分が聞いてる話が同じように聞こえてるときには全部ダメ。同じように聞いてるときは。その聞く中において、自分の信心の有り様を反省しながら。自分の信心はどこがどうなっている。そして今までこうだと思っていることが違っているということに気が付かないかん。そして自分自体がどういうふうに動きよったということに気が付かないかん。そこに初めて自分の信心が成長している。だからね僕がなぜこの法門に飽きないか。それなんだ。だからなんぼでもおんなじことを聞く。

~中略~

私達の信心は理じゃない。どこまで行っても事でいかないかん。実際において事実をもって突っ込んでいかなきゃいかん。でなかったら成仏成仏いって、なんちゃならんで。お母さんに聞いてご覧。功徳ってどんなもんがあるんですって聞いてご覧。たぶんね。病気が治った。思うたように行く。それが関の山だろ。これやったらオカルトと一緒だ。そうじゃない。大聖人様のおっしゃっとるのは。生命だろ。それが事なんだ。それができるかできないか。功徳として。

あなたお化粧品売ってね。このお化粧品。肌が荒れませんよ。色が白くなりますよ。もち肌になりますよ。と売ってもよ。つけた本人が肌がガサガサになったら、姐さんどうしてくれるのとねじ込まれるろう。その時に言うたとおりになったとき、あなたのとこの商品はええね。とこうなるろう。

こういったことをなぜ話したかといえば、大聖人の仏法というのは全部生活なの。だからこういうふうな会合で質問をようせん。質問のやり方がわからんという声をちょいちょい聞くの。それはなぜか。仏法は生活法であるということに気がついてないわけ。個人的に指導を(受けたい)、いうて、よく来られるろうがえ。大きな問題を。僕はどんな問題があっても仏法の話はするけんども、これこうせえああせえ言うて、どうこうちうことはないわけなの。それはなぜかいうたら仏法そのものが生活法なの。生活の云々は仏法でやっているわけ。信心の有り様を見よったら生活がどうなりよるかわかります。その人の信心の有り様が全部出てくるわけだ。生活に。こういうふうな大事なことを教えてくださっとるわけだ。仏法とはそういうもんでね。ええ加減なもんじゃないということに気がつかないかんが。難しいこときいたってなんちゃならんで。自分の生活に使えなかったら。自分の生活はどうなんだから、これ仏法の上から見たらどうなんだ。というのが本当やろ。

日常の生活から見たならば、一生成仏は毎日毎日が楽しかったら一生成仏やん。一生成仏がどうで、と質問をしても意味がないことで。自分自体の日常生活そのものがどうなっとるか。本当に御本尊様が信じれているとはどういうことですか。そんなことはない。日常生活の中にそれもちゃんと出てくるわけで。どんなことがあってもゆるぎのない自分自体の不動の精神そのものをもって御本尊に向かっていくのが信。じゃあ信の一字においてどんな功徳が出ますか。妙法蓮華経の功徳なの。これが。南無妙法蓮華経の功徳とはなにかといったら。釈尊がいろんな修行をしてきた。六波羅蜜の修行をしてきた。その行苦。苦労してやってきた功徳というもの一切をたった一言によって僕たちは手に取ってしまっている。たった一言の南無妙法蓮華経で。これが信心の功徳なの。これは御本尊が信じれるけんできるんであって、信じてない人がなんぼ題目を上げたて、たった一言じゃあ妙法蓮華経の功徳は手に入らんよ。ほいじゃあ仏様の智慧とはどんなもんでしょう。大聖人おっしゃってる。仏の智慧とは南無妙法蓮華経だという。このたった一言の南無妙法蓮華経。三世十方の諸仏の智慧が全部入っておる。だから困った困った言うよりか、南無妙法蓮華経と題目。素直な気持ちであげてみる。それが十方三世諸仏の智慧一切が妙法蓮華経なん。それをたった一言で自分に受けて立つ。

そうするとここでわかるでしょ。いろんなことにぶつかったとき、御本尊に任すんですよと言ってることが。意味合いがわかってきたろ。自分の知恵で突っ張っても解決しないよ。でもバカになってしまってどうでもええがなという気持ちになって、南無妙法蓮華経じゃったと。不思議に解決していく道を歩んでる。そのとおり事実解決していく。行動に起こして事実解決したときが事であって、それまでは理なんだ。そういうふうな大事なことがある。

あなた方が題目きちっとあげとったらひとりでにわかってくることだから。南無妙法蓮華経は諸仏の智慧だから。

 
 
 

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