求道心
- kisuke1965
- 2021年6月12日
- 読了時間: 7分
更新日:2021年6月13日
初代講頭座談会 2007年6月5日
御本尊をいただいてからが、ね、本物の信心に入るんだよ。それまでは誘引せられていくというか、方便的な衆生を済度すという言葉があるけどね。功徳功徳功徳功徳というふうなひとつの姿を見せてもらうわけなんだけど。それから素晴らしいなと入っていく。それからご自分の罪業消滅の戦いに入っていく。それもありますし、それだけの単純なものじゃないから、自分の業報との戦いもあることだし。
鼻水すすって来られた方も、この信心したらよくなる言われながら、ひとつもええことないちゅう話も出てね。自分自体が精神的に行き詰んだ。行き詰んでどうしたっちゅうたならば、大聖人の御書を開げた。行き当たりばったりで御拝読した。所詮、行きつくところは信心をせないかんというところに行きついた。僕、忘れてしもとったけど平成4、5年ころ、ここでね授戒を受けとった。その人が。そういう人。宿縁というものがあってね。今回、葬式。全然関係ないところに住んでいたんだけれど。葬式言うて来たわけなの。(ここに普段出入りしていない)。初めて住職が来てここで授戒したとき、その時だよ。ここで授戒を受けてるわけなの。私忘れてしまってたけどね。住職に聞いてみたら、いやそうだよって。ケロッとして。宿縁とはそんなもんでね。切れてしまってると思とってもやはり切れてない。糸がちゃーんとつながっている。訪ねてくる。この大宿縁のある者は一応何でもかんでも行き詰まされている。これでええんかこれでええんかっちゅう状況にずーっと追い込まれていく。そこで目が覚めるわけ。これじゃいかんちゅうて。そこで自分の知恵なりに御書を広げて、あれこれ読んでみると自分たちの信心のありようがずーっと出てくるわけ。そうすると今度は自分自体を、行き詰んでいる人は自分というものを持ってきて、そしてなんで行き詰んでいるかっちゅうことを見てみると、結局仏法をもってずーっと見ていくから本当のことが出てくるわけ。ところが仏法を持(たも)ってない人の行き詰みというのは、仏法で見ないから世間の法で見ていくから方法手段がどこかにあると思って右往左往するから迷いが始まっていくわけ。ここが違う。だから寛尊が、仏法のいわれをよく知れば世間の法もまた仏法かということはこういうところに大事なものがある。そういうところに落とし穴に落ち込んでしまう。だからなんぼ私たちが知恵を振って振って、これ以上の知恵は出ませんと100人寄って200人寄って1000人寄って知恵を振り絞っても、妙法という一つの法則に太刀打ちすることはできん。じゃったならば初めから自分の小知恵は振り回さんと、妙法蓮華経を信じ切ってそれをもって乗り切っていくわけだ。ここに来られる方によく話をするけどね。起きてきてもない問題を次から次へ考えてね。自分で。自分で問題を考えるということは。問題だから。考えたら。自分の知恵だから。良い知恵は浮かばん。結局落ち着くところの知恵というのは自分を細うしてしまう、悪いことばっかし考える。ええこと考えんで。悪いことばっかし考えるんだぜ。自分の立場から、自分の力から、周囲の状況から。それによって自分自体がこうなってしまう。顰蹙(ひんしゅく)しとるから。顰蹙とは自分自体顔をしかめてしまってる。自分には知恵がない力がない。そういう状況に。打つ手打つ手がそういうふうな状況の中でやっていくからうまい具合行くためしがない。決してね。道もわかっていない人に道を聞いているんだ。これ右へ行ったらいいでしょうか左へ行ったらいいでしょうかと。それと一緒なんだよ。これはひとつのものの道理だけどもね。だから自分自体が自分というものを大事に思うて、道を詮索しながら行くちゅうことは大変難しい。じゃったならば、世間の言葉を使っていうならば運否天賦(うんぷてんぷ)。任せきる。自分の運命に任せきって。あるがままに行動していく。それをやっていく。ところが、その裏付けとして妙法蓮華経という素晴らしい功徳というものを持ってる法を裏付けにしていく。そうしたならば運否天賦はおかしなもので決定(けつじょう)した姿に変わってしまう。決定ということは何が定まったか。自分の一念心が不動の一念心に変わる。何を信じたかというと妙法という偉大なる誰も太刀打ちできない妙法という一つの法を信じ切った。そういう風な姿に変わってくる。こちらでは運否天賦。仕方がないというふうに開き直った。けどもそこには妙法という不思議な力のある法を信じ切った上において開き直ったのであれば見事に決定している。開き直らないかん。御本尊をたもっている以上。皆さん方は鎮護御本尊様しかない方も多いようだけども、御本尊様に変わりはない。けども、たもっとっても自分に不安があっていつも動念。動ずる心。動ずる一念心。これ動念とは迷いの意味合いだけども。そういうふうな迷いというものが絶えず働いて、どうしたらええこうしたらええということが次から次へ起きてくる迷いというものが働きながら南無妙法蓮華経と題目をあげても何の意味もない。右でも左でもどちらでも構わん。自分がこうだと思ったら一念心を定めて南無妙法蓮華経と題目をあげていく中に初めて道が開いていく。何にもないことに変わらんけど(何でもないことのようだけど)勇気がいる。これは。勇気がいるんで。勇気のない人は出来んでこれは。よっぽどいるで。これを大聖人はどう仰っているか。「捨て身の信心とはこういうことなり。」捨て身の信心は外に向いちゃいかん。自分に向け取らんな。自分自体が絶えず捨て身の信心をしているかということ。捨て身の信心をしている人は自分をかばう信心をしていない。ちょっと儲かる話があるとすぐ信心を放っぽらかしてしまう。儲かる話へ行く。そういうふうな信心は迷いの信心だろ。だから私たちは迷いの中に悟りがありまた悟りの中に迷っていく。これは一念心が定まってない者がそれをやる。こういうふうに寛尊がお示しあそばされている。これを防ぐ方法はひとつだけある。それ今やってるこれ(座談会)なの。これが唯一の手立て。御信心の話を絶えずする人とねえ。たまに来る人というのは来るときは必ず問題が起きてくる。絶えず来る方は境涯が変わった姿が出始める。これはここにおってわかる。嫌なものでねえ。そんなことは言えないけど。御信心を励ますしかないからね。大聖人様の言葉に嘘はないねといつもうちではいっつも話してる。先師上人のお言葉に。不思議なもので。だからといって来い来い来い来いと、そういう組織じゃないから声はかけない。その本人の求道心に任す以外にない。住職からもそう言われている。本人の求道心に任す。やらないかんやらないかんとやっても全部手放してしまったらそれで終わりなんだ。求道心がなかったら。そうじゃなしに。いつの間にか求道心ができてきて、自分自体が仏法ってこんなにすごかったんかと気が付いてくると自らやらないかんちう気になってくる。それが一番大事なこと。
大聖人様の御書にあるんで。自分自体が100年も1000年も長生きするつもりかしらないけど、日常の生活をああでもないこうでもないとやって、自分自体の行き着くところを考えんと、まるで100年も1000年も長生きするような錯覚を起こして仏をも敬わん、法も信じない。ただ無知にしてあかし暮らしとるのが人間の姿だと。いよいよとなったときに、さて自分自体が命終してこれから閻魔王のところへ行くときに何をもって自分自体が言い訳して幸せな境涯、すなわち成道、幸せな境涯のところに自分が行けれるか。何の資量をもっているのか。何にもないじゃないか。財産ばかり追っかけて、さて自分自体が困ったときには助ける者は誰もおらん。いう御文がありますよ。厳しいろうこれ。
前世の業因の中において自分たち自体が自分の罪業を消滅しながらその因というものを打ち破らないかん。それが今私たちの信心の姿勢なの。だからどんな業報を持っておっても問題にする必要はない。そこまではっきり言われておるの。だから罪障が深いという必要はない。自分が功徳を積むことが大事なの。それが全部自分の道を開いていく。しっかりした信心に立つことが大事ぞね。
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